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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    二 中世の館から城下町へ
      武士の館と中世の「都市」
 次にこうした城館の様子をみると、中世の武士は周囲を堀と土塁で囲んだ方一町(約一〇九メートル四方)程度の屋敷に住み、これを当時「館」といい、また「堀の内」「土居の内」などとも称した。その周囲には領主の直営地があり、これは門田・前田・佃・御手作などとよんだ。こうした武士の館は所領の要所に置かれ、館を中心とする同心円的な構造をもってその周辺の開発と支配を進めていった(通1 六章二節参照)。
 承久二年十一月、若狭の武士西念(山西氏)は三方郡中寺の字中河原に比定されるところの田代四段と原の屋敷畠六段および所従四人を、その娘の閇(刀自の意であろう)女房に譲っている(資8 園林寺文書三号)。このように領主に隷属した下人・所従といった従者たちも譲渡の対象となり、彼らは主人の身のまわりの世話や館の前の門田や門畠の耕作に従事させられた。また延慶三年(一三一〇)六月、若狭の大飯郡本郷を根拠地とする有力御家人本郷泰景は、山田女房という女性に本郷内田地五町と居屋ならびに敷地五段郡土居畠という屋敷地を譲渡している。この屋敷地のなかには「火たきの屋」という屋敷もあり、女房が台所の火を司っていた(資2 本郷文書八号)。このように有力武士の館内には複数の屋敷などがあった。こうした在地武士の屋敷の様子を示す文献史料はこれらの例のほかには県内にほとんど伝わっていないが、明治期の地籍図には館・堀之内・土居之内・前田といった字名が残っているところも多く、これによってかつての中世の武士の館の跡を探ることもできるだろう。
 武士の館は領主経営の根拠地であり、開発領主は農村を背景として成長していった。中世後期になると社会経済の発展にともなって商工業者の誘致も図られ、『庭訓往来』に叙述されるように「市町之興行」がなされ、種々の職人や芸能者たちが招き据えられて領主に従った。そしてまた一方では海陸の交通の結節点に大規模な湊町が発達し(本章二節参照)、坂井郡吉崎のような新しい寺内町、坂井郡金津・足羽郡三か荘のような商業的町も、室町期から戦国期にかけて発達していった。そしてこのように比較的大きな町には、商人の組織や「町衆」といった集団が形成された(資5 瓜生守邦家文書一六・一八号)。また市も各地に多く立っていたとみられ、各領主たちもこれを把握しようと努めた(本章一節二参照)。
 戦国大名もその家臣団と商工業者をともに城下に集住させようと努めたが、織豊期以前では一般的にはまだ不十分にしか実現されておらず、この時期の城下町は大名の館を中心とする家臣団や商工業者の屋敷のある城下と市場とが分かれて存在するという構造をもっていたといわれている。こうした中世の都市の実体については、発掘調査によって明らかになった一乗谷を別とすればややとらえにくいところがあり、史料もごく断片的である。若狭では、南北朝期に守護代などが小浜の問丸の屋敷に滞在している(「税所次第」)。また敦賀でも南北朝期から田地四段、在家四間、四間の浜の蔵一宇、三間の居屋一宇を財産としてもっていた問丸的流通業者とみられる者が住んでおり(資8 永建寺文書三号)、戦国期には東町・西町などで地子銭徴収も行なわれていた(資8 善妙寺文書一二号)。金津には八日市の市場が発達し、鎌倉末期には市人も居住していたことがみえる(「雑々引付」)。そして吉崎は蓮如の布教により急速に形成された町で、多屋とよばれた宿坊に門徒たちが集まり、かなり密集した町の様相を呈していた。また戦国期の大野にも町が形成されていた。永禄十一年(一五六八)の宝慶寺の寺領納帳に大野郡内の村々とともに「町」という単位があり、米屋左衛門尉二郎・猪山の祝おく兵衛といった人びとが年貢米を納めている(資7 寳慶寺文書七号)。また斯波氏の居城犬山城の東南麓にあった洪泉寺や洞雲寺の寺領目録には柳町・野口・水落などの地名がみえ(資7 洞雲寺文書二・一四・一六・一八号)、これらはのちの天正年間(一五七三〜九二)に金森長近の大野城下町の名ともなっている。戦国末期居山城は朝倉景鏡の居城であり(「越州軍記」)、居山は亀山の古称ともいわれるので、金森長近の大野城下町の前身となる町の一部がすでに戦国末期に形成されていた可能性があり、それは居山城下町としての性格をもっていたのではないかと思われる。



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