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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    二 中世の館から城下町へ
      中世の城と合戦
 前項で述べられたような越前・若狭の山城以外の城館について、その発展を個別にたどることのできる例は少なく、史料も乏しいのであるが、中世城館の一面を合戦の歴史を通じてうかがうこともできる。まず中世の幕開けを告げた源平合戦の初めの時期に「津留賀城」がみえ(『玉葉』養和元年九月十日条)、平安末期の敦賀の地に城が築かれていたことがわかる。そして木曾義仲の一連の合戦をつづった軍記物には、源氏方の城として南条郡燧城や坂井郡河上城、平家方の休息地として坂井郡長畝城などの名がみえる(資1 「源平盛衰記」)。そのほか近世の地誌にも木曾義仲や斎藤実盛などの陣・城・館跡と伝えられるものが散見する(表59)。これらの城館の実態は未詳であるが、街道沿いの交通上の要地には軍事的な拠点となる城が早くから築かれていた。

表59 近世地誌にみえる越前の古城館

表59 近世地誌にみえる越前の古城館

 鎌倉幕府が成立すると、守護・地頭の制度が確立していく。各国に設けられた守護の役所を守護所といった。承久二年(一二二〇)に越前守護大内惟義の子義海が書写した醍醐寺所蔵「諸尊道場観集」の料紙として使われた建保年間(一二一三〜一九)のものと推定される文書には、承久の乱直前の越前の守護所にかかわる貴重な文書があり、国御家人が守護所に祗候すること、犯罪の検断のため容疑者を守護所に召し出すこと、「守護所御沙汰人穴尾四郎」の名などがみえる(資2 醍醐寺文書一四・一六号)。この時期の越前における守護所の位置については明らかでないが、南北朝期になると守護斯波高経の拠った南条郡新善光寺城がみえ、その後も守護所は南条郡府中に置かれた。若狭では遠敷郡西津に守護所が置かれていた(「守護職次第」)。次に地頭館と考えられるものに、越前では伊自良氏の屋敷(美山町中手)や波多野館(永平寺町谷口)と伝えられるものがある。若狭では後述するように本郷氏の例がある。
 確実な文献史料により鎌倉期の城の様子がわかるものに、今立郡方上荘の事例がある。方上荘は古い摂関家の荘園で鎌倉期も地頭は置かれず、代々進藤氏や斎藤氏などの在地武士が下司として荘務にあたった。弘安元年(一二七八)十二月、方上荘の百姓たちが荘園の政所屋を攻撃し目代を追い出すという事件がおきた。その直後の翌二年正月、在地有力者の斎藤助高は荘内の般若寺に対して公方の下部が乱暴することを停止している(資5 安楽寺文書一号)。当時の下司は進藤家康という人物で、彼は百姓たちを告訴してその結果摂関家の裁判となり、九月には五人の張本が禁獄された(『勘仲記』弘安二年九月二十三日条)。ところがその一〇年後の正応二年(一二八九)には、前下司が方上荘に「城」を構えて摂関家の使者を受けつけないという事件が発生している。このときは進藤家康の一族である長成が下司であり、前下司の家康と対立したものと思われる。このため摂関の近衛家は、事件の解決を幕府に要請している(資2 東洋文庫所蔵文書三号)。
 こうした事例は、この時期の在地の築城の背景として荘園領主と荘官・百姓の対立や荘官一族内部の対立の激化があったことを示している。鎌倉末期に荘園の体制に反抗して暴力的な活動をした者たちを「悪党」とよんだが、城郭が各地に多く築かれていくのは、こうした地域的な小競り合いが一つの契機になっていたことを暗示している。

表60 「得江頼員軍忠状」にみえる越前の城と陣

表60 「得江頼員軍忠状」にみえる越前の城と陣

 南北朝の内乱はそれまでにみられない広範囲の内乱で、合戦についても攻城戦あり野戦ありで華々しい様相を呈した。特に合戦の経過を詳細に記した軍忠状が残っており、『太平記』などの軍記物ではうかがい知ることのできない城と合戦の事実を知ることができる。なかでも、暦応年間(一三三八〜四二)の越前の中央部の合戦について記録した能登の武士たちの軍忠状が多く残っている(資2 尊経閣文庫所蔵文書一三〜二二号)。そのうちの得江頼員の軍忠状には三〇ほどの城や陣がみえる(表16、図20)。それらを立地によって形式的に分類すると、山城では比高二〇〇メートル前後の場所に築かれたものが多く、より低い比高四〇〜五〇メートルの岡にも重要な城が築かれていることがわかる。表60で岡としたところはいずれもすぐれた眺望をもち、北陸道やその他の交通路をうかがう要地にある。そして平城も多く、水上交通と関連したものも多い。これらの城を個々に検討してみると、ほとんどの城にその勢力基盤となる荘郷が対応しており、この時期の城はいわば荘園・公領に対応して立地しているといってよい。そこにおける合戦では「庄官以下百姓」たちが活躍して軍忠を認められており、守護によって動員された在地の荘官・百姓たちがかなり合戦に参加していたのである(同一二号、資6 三田村士郎家文書一号)。
 室町期から戦国期になると、伝えられるところの城館の数も多くなり、越前では平野部にほぼまんべんなく分布するようになり、領主の日常的在地支配にも重要な意義をもった。戦国大名は国人たちとは全く別格の城を築き、戦国期末になると織田政権との軍事的な対立の結果、合戦の規模も極めて大きくなり、それにともなって築城技術も高度に発展していった。



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