城は山頂に主郭を配し、それより北側に延びる主峰の稜線上に連続する郭をしつらえる。さらに市街地に面する北西谷間にも小郭群をつくり、それを連結する「谷の横道」と称する小道が多くみられる。また主郭南側背後から西南、西斜面には壮大な竪掘、畝状竪掘群が配置され、山裾には水濠をめぐらせた守護館があった。しかし東側では防禦遺構がなく、石垣をめぐらせた発心寺が防壁の役割を果たしたのであろうと思われる。
築城は「若狭国伝記」や長源寺文書の記述によって大永二年(一五二二)と考えられ、以後城郭を拡張整備し、永禄年間にはほぼ現状に近い様相を呈したと推定される。城の廃絶は小浜城の築かれる慶長五年ころであり、一国守護の本城として七八年間機能したことになる。
城の範囲は南北六〇〇メートル、東西五五〇メートルにも及ぶが、一乗谷のように曲輪(郭)の名前は残されていない。ただし、山頂主郭付近は御殿とよばれている。後瀬山城の城郭遺構は大小合わせて一三九か所あり、最高所から下段郭までの比高差は一五五メートルとなる。
縄張図は小さくてわかりにくいが、最高所が主郭で三段の郭で構成される。この外郭は石垣をめぐらしているが、これは当初の遺構ではなく、天正十年丹羽長秀によって補修されたものである(資2 山庄家文書一号)。主郭の南西に張り出した一郭は一乗谷城の千畳敷と同様の役割を果たした場所で、発掘調査の結果礎石建物跡が検出され、出土遺物も肩衝・天目茶腕など文化的遺物が多い。主郭に連続して北に延びる尾根筋にも階段状の連郭をつくるが、特徴的なのは北西尾根筋の南につくられた畝状竪堀であろう。峰の下辺谷間につくられた四条の巨大な竪堀もこの城の重要な遺構で、畝状竪堀の祖型との見方ができる。館に面する北西谷間には「谷の横道」と称する連絡道が縦横に走っており、他の山城ではみられない特異な遺構である。これは敵の攻撃に対して「横矢を射たる場所」(『稚狭考』)として機能しており、全国的にも珍しい施設である。山裾の守護館は東西一一〇メートル、南北一二〇メートルであり、明治の地籍図には北西に幅五・五メートル、西側は一一メートルの水濠跡が記されている。現在小浜小学校と空印寺境内になっているが、幅六メートル、長さ三六メートルの土塁跡が残る。永禄十二年に廻国中の連歌師里村紹巴がこの館を訪れているが、荒廃した館をみて「国中しろしめされし時思いやられぬ」と記している(「天橋立紀行」)。 |