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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      若狭の山城 国吉城
 国吉城(美浜町佐柿、町指定史跡)は御岳(標高五四九メートル)から北西に張り出す山系の下降してやや突出する城山(標高一九七・三メートル)山頂に主郭を配し、それより北西に下る尾根上に四〇〇メートル×二二〇メートルの範囲に連郭をつくる。この先が丹後街道の通る椿峠となり、城の所在する山系は若狭中央部への東側防壁の役割を果たしている。山の東を山東郷、西を山西郷と称していた。山の東・西側面は急傾斜し、北側は機織池という沼地があって天然の要害を形成する。
図62 国吉城跡要図

図62 国吉城跡要図

 永禄年間に三方郡東部(美浜町)で支配力をもっていた武田氏被官粟屋勝久が古城を手直しして改築したもので、永禄六年から天正元年にいたるまで越前朝倉氏の攻撃に耐え、落城しなかった城として天下に勇名を馳せた。城は最高所の主郭に部分的に石垣を用い、それより順次下降する尾根上に七段の郭をつくる。段差は高いもので四、五メートルあり、先端部との比高差は七二メートルとなる。また主郭から西側尾根筋の中段にも土塁を配した一郭をつくる。この山裾に館跡があり、これが大手筋となるのであろう。『若州国吉篭城記』によると、永禄六年の朝倉氏攻撃にさいして粟屋方は鉄砲三〇挺で応戦しており、これが若狭における鉄砲の初見となる。朝倉勢の城攻めは約一〇〇〇人と伝えるが、城方は地侍ら合わせて二〇〇人、百姓六〇〇人の混成部隊であったらしい。元亀元年四月の織田信長の越前侵攻にこの城が使われており、『信長公記』同年四月二十三日条に信長の国吉城逗留を伝えている。天正十一年粟屋勝久の所替以後、秀吉の家臣木村定光が城主となり、城の修復と佐柿城下の整備を行なっている。城の廃絶は慶長年間(一五九六〜一六一五)と推定される。



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