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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      若狭の山城 中山の付城
図61 中山付城跡要図

図61 中山付城跡要図

 中山の付城(美浜町太田)は、永禄七年に若狭へ侵入した越前朝倉氏によって築城された。若狭武田義統に反抗する被官粟屋勝久の立て篭もる佐柿国吉城(美浜町)を、義統の要請を受けて攻撃するための向い城である。城は国吉城の北側に対蹠する芳春寺山の山頂標高一四五・五メートルにあって、一〇〇メートル×六〇メートルが計測される小規模なものである。中心部を土塁で囲み、左右に小郭を配するが、西の国吉城側により強固な防禦がみられる。また南側郭付近には井戸跡が残り、南・北尾根筋の警備も固い。城の東側山裾に所在する芳春寺には朝倉方の本陣が置かれていた。臨時の城郭とは思えないほど見事なもので、永禄九年に後方の佐田地区に造られた狩倉山付城も同様である。
 朝倉勢は中山の付城を拠点にして山東郷・山西郷(美浜町)へ乱入し、稲を刈り取り、大豆・野菜まで奪い取ったという(『若州国吉篭城記』)。粟屋方も永禄七年九月二十七日、二五〇人の軍勢を率いて夜襲をかけ焼打ちにして勝利を得ている。この城での合戦は、これ以外に伝わらない。しかしそののちも朝倉方付城として活用されたらしく、『信長公記』天正元年八月十二日条に「若狭粟屋越中所へさし向い候、付の城共に拾ケ所退散」とあって、このとき朝倉勢の退去したことを記す。



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