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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      越前の山城 木ノ芽峠城砦群
図59 木ノ芽峠城砦群

図59 木ノ芽峠城砦群

 敦賀から今庄・府中へ抜ける北陸道の関門にあたり(今庄町板取・敦賀市新保)、古来から越前への道として要衝の地であった。源平・南北朝・戦国期の争乱、一向一揆など、各年次にわたる合戦の舞台の要害として重要視されてきた。天正年間に柴田勝家による栃ノ木峠越えが開発されて主体性を失ったが、明治に入っても利用された峠で、坂道には今も敷石路が残っている。山頂尾根筋には木ノ芽峠城(標高六二〇メートル)・西光寺丸城(標高六四三メートル)・鉢伏山城(標高七六二メートル)の三城が所在する。それぞれ独立した城砦だが、深いつながりのあるところから城砦群として一括したほうがよい。木ノ芽峠城は南北朝期には築城されていたと推定されるが記録はなく、確認される遺構は戦国期のものである。城の規模は三五〇メートル×一〇〇メートルと三城中で最も大きい。@は峠の西側にあって鉢伏への背後を堀切で遮断し、郭は土塁で囲まれている。A・Bは畠地による破壊でかつての様相はつかめないが、Bの東側尾根筋は壮大な堀切で防備されている。城の構造は戦国末期の遺構との見方がされ、『信長公記』にいう天正二年の「取出(砦)を拵之」のとき修復されたと考えられている。西光寺丸城は木ノ芽峠城の東側にあり、二〇〇メートル×一二〇メートルの範囲となる。四方を土塁で囲み、南側尾根筋は巨大な堀切で防備している。北側背後には堀切はなく、木ノ芽峠城の前郭であったことを示している。鉢伏山城は木ノ芽峠の西側標高約七〇〇メートル先の山頂にあり、三城中では最も高い。南側峠への防備が厳しく、木ノ芽峠城を意識したことがうかがえる。あるいは詰の城としてのはたらきをしたものかと推測される。
 城の遺構はそれぞれ独自の縄張りをみせており、元亀元年の信長越前侵攻にさいして朝倉氏は鉢伏山城に印牧弥六郎左衛門を入れ、本格的な城砦を造ったと考えられるが(「朝倉始末記」)、天正元年の織田軍、同三年の一揆勢による防備など入り乱れての攻防のなかに城郭が整備されており、一揆軍篭城のとき、西光寺丸城は本覚寺・西光寺衆徒、木ノ芽峠城は本陣として下間筑後軍、鉢伏山城には専修寺の一統が守備したとある(資4 勝授寺文書一九・二〇号)。
 したがって、木ノ芽峠城砦群は朝倉氏・織田氏・一向一揆勢の三勢力によって築城・調整されてきた城郭で、複雑な様相をみせるが、戦国末期の攻防にともなう峠の陣城として他に例のない貴重な城砦群である。



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