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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      越前の山城 玄蕃尾城
図60 玄蕃尾城跡要図

図60 玄蕃尾城跡要図

 城は福井県と滋賀県の境(敦賀市刀根・滋賀県余呉町)、柳ケ瀬山(標高四二〇メートル)の山頂に所在し、内中尾城とも称される国指定史跡である。北国街道や刀根坂を押さえる位置にあり、尾根筋は行市山城(佐久間玄蕃の砦)を通って賎ケ岳にいたる戦略上の拠点であった。城郭は二五〇メートル×一六〇メートルとさほど大きくはないが、見事な縄張りをみせる完成された山城である。築城者には二説あって、元亀年間(一五七〇〜七三)から天正初年ごろに朝倉玄蕃が造ったとも、天正十年に佐久間玄蕃が築城し、それによってこの名称になったともいう。一般的には、賎ケ岳合戦のとき柴田勝家が本陣にしたとする後者の説が有力である。
  城の特徴は本丸に礎石のある天守台をもつことで、明らかに近世城郭の様相をみせている。また馬出し・虎口・土塁の配置など、前述の村岡山城を大きく進歩させており、こうした手法は典型的な織田系城郭との見方ができる。臨時の城としての不完全さはなく、あわてて築城したとは思われない。おそらく対秀吉戦を意識して念入りにつくられたと考えられるのである。このことは秀吉方でも同様で、天正十年十月二十一日付の丹羽長秀書状によれば、柴田方を意識して近江海津など北国街道を押さえる位置に築城したことが知られ(資2 山庄家文書一号)、この段階ですでに賎ケ岳合戦は始まっていたのである。



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