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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      越前の山城 一乗谷城
 福井平野の東南、足羽川支流の一乗谷川下流域の谷あいに所在する戦国城下町と館跡および背後の山城は、国指定特別史跡として有名である。東・西・南が山で北が足羽川という、防禦には絶好の地理的条件を巧みに利用した都市型の城砦といえるであろう。またこの谷あいをとりまく山々には三峰城・成願寺城・槙山城・中山城など堅固な城砦や見張所が配備されており、広大な地域を含む一大要塞群を形成しているのである。
 一見、谷あいの不便な地理のようだが、美濃街道が通り、三国湊へと続く足羽川の水運、鹿俣峠を抜けて越前府中(武生市)への街道など水陸交通の要衝としての立地である。ここでは館・城下町は省き(本節三参照)、山城についてのみ若干述べておく。
図58 一乗谷城跡要図

図58 一乗谷城跡要図

 城は館の背後標高四七三メートルの城山に主郭を配し、全長では一・五キロメートル、幅二〇〇メートルの範囲にひろがる。いわゆる主郭部分はおよそ六〇〇メートル×二〇〇メートルであり、北から千畳敷・一の丸・三の丸という構成になる。千畳敷は本丸跡と伝承されるところで、山腹を切り開いて平坦地を造成し、山城のうち最も広い部分となる。ここでは升形虎口や土塁をめぐらす観音屋敷・櫓跡・月見櫓跡などがあり、山上御殿ともいうべき場所であろうか。北側には竪堀群が存在する。おそらく主郭群のなかで最も新しい一郭と推定され、主郭とは考えられない。この部分は義景の代に新設されたと推定される。あるいは若狭武田氏の後瀬山城にみられるような文化的施設として機能したことも考えられるのである。図58でいう一の丸・二の丸・三の丸が、本来一乗谷城として存在したと考えられよう。一の丸は四四三メートルの山頂を削平して造られているが、西側では空堀をめぐらして防備しており、これは千畳敷を意識したとの考え方もある。しかし千畳敷部分は一の丸より後世のものと考えられ、もともと西側谷間の甘い斜面を防備したとの見方もできる。
 四囲を完全に防禦し、最も独立的な様相をみせるのが二の丸である。北西は馬背状の尾根筋を生かして直路とし、八の字型に土塁を配して誘導するかたちとなる。北東は堀切と土塁で防禦し、南側尾根筋も竪堀群で堅固である。三の丸は最高所の一部だが、竪堀群が取り巻き、堀切で遮断するなど複雑な構造を駆使して防禦している。これは二の丸への通路的要素が強い。こうして一乗谷城をみた場合、主郭は二の丸ということができるのではないだろうか。いずれにしても、表面上の遺構看察であり、発掘調査によって見方はかなり変化するものと想定される。
 壮大な朝倉氏一乗谷城だが、こうした広い範囲をもつ山城として、南越盆地の南端にあたる南条町阿久和口には、麓に館、背後に山城という杣山城(国指定史跡)がある。これも東西約一キロメートル、南北五〇〇メートルの広範囲を占有するもので、東の郭、西の郭などが残り、現在は部分的に環境整備などが行なわれている。



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