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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      越前の山城 村岡山城
 勝山市の北側郊外へ一・五キロメートルの地点にある村岡町の東側、通称御立山(標高三〇一メートル)山頂に主郭を配して所在する。眺望は良く、南東山裾には石川県白峰村へ抜ける街道が走り、北東山裾はかつては大日山を越えて小松方面へと通じていた街道となる。「城跡考」には同城は一向一揆の城でのち柴田氏の居城となったと記されており、「朝倉始末記」には天正二年四月十四日のこととして、大野・南袋・北袋・七山家の一揆勢が協議して一夜で塀・柵や堀をしつらえ城を構えたとある。この一揆勢による平泉寺焼打ちは有名であるが、一揆当時の城は現在残る完成されたものではなく臨時の粗末なものとみるべきで、今も主郭以外の尾根筋にその痕跡を残している。
図57 村岡山城跡要図

図57 村岡山城跡要図

 城郭は御立山全域に広がっており、図57は主郭部分のみで二五〇メートル×一五〇メートルが計測される。中央に堀をめぐらした天守台があり、南西尾根筋には畝状竪堀を配するなど、中・近世にまたがる築城様式がみられ注目される。この城の完成は一揆滅亡後に入部した織田方によるものと推定されよう。また当初にこの城に拠った一揆勢の七山家は、谷・木根橋・皮合(河合)・六呂師など加賀国白峰村への街道沿い集落の人びとであり、背後に加賀一向衆の姿がみえてくる。



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