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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      越前の山城 戌山城
 大野市街地の西側、犬山地区に所在する山城で市指定史跡である。城は飯降山(標高八八四メートル)から北東に延びる枝峰先端のやや突出した標高三二五メートルの山頂に主郭を配し、東・北・南にそれぞれ郭をつくる。さらに東側下辺には西方寺城があり、谷あいには「庄司屋敷」が所在し、居館との見方もされる。城の北側は主要幹道の美濃街道が走り、西側の今立・府中への道が交差する軍事と交易の要所に位置していたことがうかがわれる。
図56 戌山城跡要図

図56 戌山城跡要図

 築城は南北朝期に越前守護となった斯波高経の三男義種によるものと伝えられ、以後在地姓の大野氏を名乗り、満種・持種・義鏡の四代続いたとされる。斯波氏本家を継いだ義敏は持種の子であるが、朝倉孝景はこの義敏を追い大野郡を支配下に収めたので、戌山城は一乗谷背後の城として重要な役割を果たすこととなった。以後、天正元年の朝倉氏滅亡にさいして城主の朝倉景鏡は織田信長に降伏したが、翌二年には村岡山(勝山市)に立て篭もった一向一揆との合戦に巻き込まれ討死した。翌三年、一揆討伐後この城へは金森長近が入城したが、のち亀山城を築いたため廃城となった。
 城は築城当初の姿を残さず、遺構は明らかに戦国期のものである。主郭は二段で構成されるが、最高所との段差は七、八メートルもあって極端な切落しとなる。また、主郭から三方に延びる枝峰尾根筋は壮大な堀切で遮断し、その間の三方に整然とした畝状竪堀群を配する。さらに北西の一郭もやや小規模ながら同様の形態がみられ、主峰とこの一郭が連携しており、合わせて主郭群とよぶべきであろう。県内に所在する山城のうち、これほどの畝状竪堀群は見当たらない。一乗谷城の竪堀群は八〇本以上あるが規模は小さく、文殊山城はやや散漫で、最も類似性の高いのが前述の波多野城であろう。
 畝状竪堀は登ってくる敵を横動きさせず狙うためと考えられており、鉄砲伝来以後普及したものと推定されている。こうした築城方式は越前だけではなく若狭でも数例みられ、いずれも天文年間(一五三二〜五五)の末から天正年間のものとの見方がされる。
 戌山城は斯波一族の拠点として存在し、応仁の乱以後、大野郡司となった朝倉氏によって整備されたのであろう。現遺構は永禄年間(一五五八〜七〇)の末から天正年間にかけて整備されたものと考えられ、戦国末期有数の越前型あるいは朝倉系類の城として、極めて重要な遺跡である。典型的な所堅固の城といえるであろう。



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