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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      越前の山城 波多野氏館と波多野城
図55 波多野城跡要図

図55 波多野城跡要図

 波多野氏館(永平寺町谷口)は勝山街道に面した山裾近くに所在し、一辺約六〇メートル四方の屋敷地といわれている。これは明治期の地籍図による復原で、現在も土塁跡が残り、かつては堀跡もみられたという。土地改良によるものか、今はその痕跡すら見当たらない。しかし中世の館跡としての雰囲気は感じられる。
 波多野氏は出雲守義重を祖とし、承久三年(一二二一)の承久の乱の功によって、吉田郡志比荘の新補地頭として関東より入部したとされている。『吾妻鏡』同年六月六日条に「五郎義重」が武勇の士として記され、以後六波羅探題評定衆として活動しているが、永平寺草創にかかわる人物として著名である(一章七節二参照)。波多野氏は鎌倉・南北朝期には大きな勢力をもっており、荘園の押領などの乱妨を働いていた。室町期にも幕府評定衆・奉公衆として記されるが、そのわりに館は小豪族と同様の規模に過ぎず、現遺構は一考を要するであろう。おそらく戦国末期には朝倉氏一族と同化し、主体性を失ったと考えられる。館が移動したのか、あるいは他に館が存在したのか、山城との距離があまりにもありすぎる現館跡とのかかわりを検討しなければならない。
 さて、山城の波多野城(永平寺町花谷、町指定史跡)は、現館跡より約一・五キロメートル離れた城山(標高四七三・八メートル)山頂に所在し、南北約二五〇メートル、東西約二五〇メートルの範囲を占有する。城山は永平寺谷と勝山街道のほぼ中心に位置し、眺望の極めて良好な場所である。山頂からは九頭竜川を隔ててそびえる鷲ケ岳城(標高七六九・一メートル)が指呼の間に望まれ、街道見張所としては最適の場所といえる。城郭の所在する山頂への道は険しく、特に最高所にいたる三〇メートルほどの間は極端に切り立っており、なかなか登れるものではない。
 城は基本的には最高所の主郭を中心に北側郭と西側郭の三郭で構成されている。それぞれは広い空間をもたず、主郭部分でも四〇メートル×二〇メートルと小さい。ところが図55にみられるとおり、見事な竪堀群が形成されており、竪堀を主にした防禦の城といえる。
 これは明らかに朝倉氏の山城構成にみられる遺構で、後述の戌山城や文殊山城や一乗谷城などにも共通するものである。特異なのは主郭と北郭を結ぶ通路であろう。馬背状の尾根の両側面を削りとってより細い一本道をしつらえており、見事な土橋様の連絡路となっている。通常はこのところに堀切を設けて遮断するものだが、この城では逆にやせ尾根を活用し、東側下辺には腰曲輪、西側方向の緩やかな斜面には畝状竪堀を設けるなど心憎い手法がみられる。さらに西側下方の谷あいの小さな平場には井戸があったらしく、今もその石組みが残る。谷間の集水箇所を利用した水の手曲輪といえよう。さらにここで注目されるのは、主郭北側に所在する櫓台である。多分高櫓が存在したのであろうが、これは天守台的な発想でつくられたものと考えられ、この類では早い時期に属するのではないかとの見方もされる。こうした遺構から戦国末期に完成された山城と推定できるが、これほどの防備を必要としたのは、元亀元年(一五七〇)の織田信長越前侵攻など、朝倉氏の危急存亡にかかわる拠点の城として意識されたためではなかったか。



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