城は丘陵上の台地から北へ張り出した小山の先端に所在し、東西約三〇メートル、南北約一〇〇メートルを占有する。中央部分には春日神社を祀るが、神社創建のとき削平されたものか、かなりの撹乱がみられる。だが北と西に土塁・平場が残り、かつての様相を知ることはできる。高さ三〇メートル余と低いが東・西の両側面は急傾斜しており、なかなかの要害である。城からは東・北・西の三方が一望され、街道見張りの城として絶好の場所といえよう。城の初出は、南北朝期に加賀の国人衆が細呂宜の辺りに城郭を構えたとあるのが当城であろうか(『太平記』巻一九)。「城跡考」では細呂宜郷を本貫とした在地豪族の城として機能したと記される。しかし十五世紀末以降は朝倉氏の国境警備の城として、明応三年(一四九四)に加賀より甲斐氏牢人が越前に乱入したとき朝倉方防備の城として重要な役割を果たしている(『雑事記』同年十月十五日条)。
国境の城は、細呂宜城だけではなく、加賀からの侵入路にあたる瓜生城(金津町)も同様といえる。これも南北朝期の築城と伝えられるが(「城跡考」)、のち朝倉氏被官の居城として存続したらしい。この城は坂井郡北東部に位置し、風谷峠を越えて加賀国境へつながる重要な位置にある。瓜生城の同じ峰続きの北端には、永正四年(一五〇七)加賀から侵入した一向一揆の立て篭もった椚山城があって、その城に対する向い城として瓜生城が存在した。図54でみられるとおり前方後円墳を利用して主郭をつくっており、二百数十基といわれる横山古墳群を巧みに利用していることがわかる。 |