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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      集落と館
 越前で数多く点在する館のうち、まずは桑原館(金津町)が挙げられる。この地は奈良時代の東大寺領桑原荘があったところである(通1 五章一節二参照)。ここでは集落そのものが城砦として認識されており、明治期の地籍図では周囲を水濠で囲み、土塁をめぐらしていたことが知られている。現在は土塁の一部しか残っていない。いわゆる環濠集落の形態を示すもので、成立の段階では戦略的な意識はなかったと推測され、むしろ「荘所」としてのはたらきが主たるものでなかったかと思われる。城館としての桑原は在地武士桑原氏の台頭によるものと考えられ、南北朝期以後のことであろう。桑原氏の館跡と称するところは、集落北西の一画の字「西出垣内」のなかにあり、範囲は約七〇メートル四方と推定される地域でさほど大きくない。これは集落垣内のなかではなく、出曲輪的要素をもったもので、集落成立以後に造営されたと考えられよう。
 桑原館以外でも集落と館が一体化したものとして、近くの御簾尾館(金津町)や清永館(坂井町)・佐野館(福井市)があり、これらは桑原館とは異なり、館の外郭に「垣内」の字名があり、館を中心として発展したことがうかがわれる。
 今一つは寺院の存在である。中世では寺院がしばしば陣所として利用されるが、特に越前では室町中期以降に一向一揆との関連から寺院城の所在が大きく浮かびあがってくる。もっとも、一向一揆だけではなく平泉寺や豊原寺などについてもいえることである。
 平野部の寺院城としての一例を挙げると長崎城(丸岡町)が目にとまる。この地域は戦略的拠点として重視されていたものか、南北朝争乱期には南朝方がこの城を攻め、激しい攻防戦が行なわれたと伝えられている(『太平記』巻二一)。暦応元年(一三三八)に新田義貞が討死したとき、北朝方の斯波高経は時宗の僧を付き添わせて往生院へ遺体を運ばせ埋葬したとの記述がある(『太平記』巻二〇)。長崎城は変形五角形で、水濠・土塁で囲まれた一一〇メートル×一四〇メートルのかなり広い地域を占有するが、前述の各館と異なり集落の範囲には含まれない。単独の寺院城として成立したもので周辺の小字には「垣内」の字名はみられず、寺門を表わす「北門」「石門」の小字名が残る。もっとも、長崎道場は南北朝争乱以降もたびたび陣所に利用されており、文明十二年(一四八〇)から翌十三年の甲斐・朝倉合戦の舞台として登場し、また天正二年の一向一揆にも城郭として存在した(『日本城郭大系』一一)。なお現在、城跡には称念寺があって新田義貞墓所(県指定史跡)が所在する。
 一方、若狭では「若狭郡県志」などで館跡の所在したことは認められるが、その数は越前ほど多くはない。主なものを挙げると、鎌倉期の本郷氏高田館(大飯町本郷)・安賀高賢屋敷(上中町下タ中)や南北朝期から室町初期にかけての三方氏館(三方町)などわずかである。もっとも、小浜市大谷には源三位頼政屋敷跡と伝承されるところがある。
 いずれにしても越前・若狭ともに館の実態は把握されておらず、一乗谷朝倉氏館を除いて松丸館(大野市)など部分的な発掘調査例以外では、地籍図による範囲の推定しかできないのが現状である。
 山城も同様で、中山城(鯖江市椿坂)・小羽山城(今井城、清水町小羽)・杣山城(南条町阿久和)・白屋北山城(三方町)・後瀬山城(小浜市伏原・男山)・茶谷山城(大飯町本郷)・砕導山城(高浜町宮崎)など、小羽山・北山・茶谷山城の小規模山城以外ではすべて部分発掘に過ぎず、県内山城の実態はまだ明らかにされていない。したがってここでは主として表面上の遺構を中心にわかる範囲の記述にとどめる。



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