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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      城館の分布と形態
 越前の中世城館は「越前国古城跡并館屋敷蹟」(以下「城跡考」と略)に三三二か所、若狭のそれは「若狭郡県志」に八八か所の記載がある。もっとも、これらのすべてが確認されてはおらず、なかには伝承の域を出ない城郭もある。
 近年では全国的に城館の分布調査が進み、福井県でも国庫補助を得て昭和五十三年(一九七八)と翌五十四年に全県各地の調査を実施した。その成果は『福井県の中・近世城館跡』として報告されているが、これには越前・若狭で五三二か所の城館跡が記録されている。このうち、一六八か所については発掘調査にともなう実測図や、現地踏査した略測図などが付されている。しかし以後においても新しい発見があり、例えば越前敦賀郡では木崎山城・金山城などの大規模山城や、疋田城の周辺および以南の各所に城砦が確認されるなど、県全域では七〇〇から八〇〇か所にも達すると推測されている。
 通常、城のイメージは大阪城や姫路城そして丸岡町に現存する丸岡城(重要文化財)など、石垣に堀をめぐらせた白亜の天守閣を想定するが、これらは天正年間(一五七三〜九二)以降に築城されたものが多く、城下町づくりと合わせて設計されている。戦略的な立地も重要な要素だが、むしろ都市的な位置づけの方が強い。
 ここでは、こうした城郭ではなく山に築かれた城を中心に述べるが、忘れてならないのは、特に越前の場合では平野部に館城の伝承をもつところが多いことである。各集落にともなう土豪武士の存在が、大小館の分布を密にしているといえるが、館の形式はすでに平安期に成立しており、居住と防禦を兼ねたとされている。武士の館は『一遍上人絵伝』などによって、高櫓のある建物や水濠で四方を囲み土塁・堀で防備した形態が知られているが、こうした館に加えて、平泉寺・豊原寺などの山岳寺院や平野部の寺院も中世では城郭としての機能をもち、越前では特に一向宗とのかかわりを示す寺院城郭の存在を無視できない。



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