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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      山城の成立と変遷
 県内最古の築城伝承をもつ山城は、弘仁十三年(八二二)に築かれたという御床ケ嵩城(朝日町宇田)であろう。もっともこれは疑わしく、同様の例として天ケ城(小浜市羽賀)がある。御床ケ嵩城は南北朝期に成立したと推定される厨城(栗屋城、越前町)と共通する遺構がみられ、十四世紀代以降との見方がされる。城は山嶺の頂上や突出する枝峰の先端などに所在し、街道・平野部を見通す絶好の位置にある。こうした場所は各時代にわたって利用されており、創築以後にしばしば改ざんされる場合がほとんどで、現在みられる遺構は、部分的に古い一郭を残すが、戦国末期のものが大半と考えられる。
 特に越前に多いのは源平合戦の伝承にともなう城館である。これらはすでに原形を失っているが、わずかに残る痕跡もあって注目されよう。例えば、斎藤実盛館(丸岡町長畝)、木曾義仲の波松城(芦原町)、仁科守弘の築城という燧城(今庄町)、同じく今井兼平の小羽山城などである。小羽山城は北陸最大の四隅突出型墳丘墓の発見された小羽山古墳群中にあって、調査した古川登の報告では十三世紀代の遺物が検出されたという。現段階では伝承の平安末期までさかのぼる山城は確認されていないが、ここでは鎌倉末期から南北朝期の遺構がよく残されており、最も確実なこの時期の城として注目されよう。
 福井県全域をみた場合、南北朝期末から本格的な築城が始まったらしく、現認の遺構もこのころの姿を残すものがある。ただし、杣山城など一部を除き、麓の館、背後の山城という形はとっておらず、それぞれ単独に築城される場合が多いようである。立地も越前と若狭では異なっており、越前では比較的高所にあり、若狭では逆に低いところに所在する。城郭の機能も、攻撃の拠点としてではなく守りの城的な要素が強く、縄張り(城郭の配置・設計)も戦国期ほど複雑でない。範囲も小規模で粗雑な遺構となる。
 山城が著しく発達するのは応仁の乱以降と考えられるが、機能的な山城として完成をみるのは十六世紀との見方がされる。特に鉄砲伝来による大幅な機能改革が注目されよう。すでにこのころには「築城記」にみられるとおり築城の専門家が存在しており、縄張りも複雑となり、南北朝期とは格段の進歩がみられる。築城の選地は多くの場合主峰からやや下って突出する尾根の先端上に位置するが、両側面が急傾斜するという条件も重要なポイントである。もちろん眺望の良いことも不可欠であろう。戦国末期にいたっては派生する枝峰の先端まで郭を設け、側面にも防備施設を配するなど予想外のひろがりをみせる。
 山城をとりあげる場合、常識的には大きい城を選ぶが、ここでは山城の遺構を中心に考えたい。また、城にまつわる歴史的背景は簡単にしか述べられない。特に戦国期の城は、例えば織田方・朝倉方など彼我の相違をみるため、同一時期の遺構を挙げてみた。もっとも山城を的確に分類・編年づけることは難しく、なお検討を要するが、越前・若狭の特徴的な山城を多少のかたよりはあるが個々に述べていきたい。



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