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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    四 湊の領知と守護大名領国制の進展
      小浜湊と若狭守護
 室町前期の若狭守護はほとんど在洛していたから若狭入部は稀で、代官・又代官が派遣された。若狭守護は税所が支配する今富名を領知するのが例となっている。そこで税所代官を任置したが、守護代官・又代官が兼務する場合も多い(三章二節一参照)。
 貞治五年(一三六六)八月に守護に任じられた一色範光(信伝)のとき、守護および守護代の居所である守護所は遠敷郡西津の開発保にあった。応永十六年(一四〇九)正月に範光の孫の義範が守護となるが、同年十一月に開発の守護所を塩浜の若王寺前へ移したという(「守護職次第」)。これ以後も一色氏の守護所は西津に置かれていた。しかし守護代・小守護代あるいは税所と今富名の代官・又代官は小浜湊に駐在することが多くなった。先述のように明徳二年(一三九一)十二月に範光の子詮範が守護となり、代官小笠原浄鎮・又代官武田浄源は小浜の問の左衛門三郎の宅を宿とした。その後も応永四年九月には武田長盛が守護代と税所・今富名又代を兼ねて小浜に居住した(「税所次第」)。応永六年六月に代官小笠原明錬が農民らの逃散をともなう強い訴えによって改替され、代わって入部した代官石河長貞・又代官片山行光は政所屋を刀宗覚の宅においた。同二十一年二月に三方常忻が税所(今富名)代官となり、又代官長法寺道圭が入部して守護・税所の両代官を実際上掌握したらしく、政所屋を刀左衛門次郎宅においた。しかし同二十八年七月、小浜問丸らは長法寺を訴えて改替し、常忻の舎弟が代わって政所屋刀兵衛太郎のもとに入った。
 右のように小浜湊の有力者である問丸・刀の家宅が政所屋として利用され、また代官・又代官の宿所ともなった。政所屋は今富名の管轄的処理などを含めて、守護としての所管事務を掌ることもあった。



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