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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    四 湊の領知と守護大名領国制の進展
      小浜代官
写真258 後瀬山と小浜

写真258 後瀬山と小浜

 武田氏の支配下においては、永正十六年(一五一九)十一月に家督を継いだ元光がやがて後瀬山上に築城して山麓に館舎を構えたと伝えられる。元光のころには常時在国することになり、小浜は湊津として発展し若狭支配の中心の実をそなえたが、ここに守護大名の城下町の体裁をもそなえることとなった。
 武田氏のもとでは小浜代官が知られるようになる(四章三節三参照)。宝徳二年(一四五〇)二月に京都の東寺が修理料を若狭で勧進したときに支出した武田氏への礼銭を記した注文のなかに、守護代・小守護代と並んで「小浜代官 今富」がみえている(ヌ函一八六)。このように「今富」と記されていることからして、一色氏の代には守護代が兼ねることの多かった税所・今富名代官が守護代から分離して小浜代官と称されるようになったものかと推定される。文明六年七月に越後の青苧についての割符をめぐる相論があったさい、その判決が出されるまで青苧を管理するよう、幕府から「小浜御代官」の内藤佐渡入道に命じられている(「政所方書」二)。これは小浜湊に入船した船の積荷の青苧の管理を命じたものであろうから、小浜代官は湊に対する支配権をもっていたことがわかる。十六世紀になると武田氏有力家臣の粟屋元隆が小浜代官に任じられており、先に述べたように大永三年(一五二三)に三条西実隆の依頼を受けて越後の青苧船を小浜湊で留置している。また享禄二年(一五二九)近江高島郡五ケ商人が同国の保内(得珍保)商人を小浜から締め出そうとして粟屋元隆に訴えていることから(資2 今堀日吉神社文書三〜七号)、小浜代官の元隆が小浜における商業に対しても統制権をもっていたことを知ることができる(四章四節一参照)。



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