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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    四 湊の領知と守護大名領国制の進展
      敦賀湾海運と朝倉氏公用
 南条郡河野・今泉両浦は、陸路で同郡府中と結ばれ、海路で敦賀湾の沿岸を航して敦賀湊に渡る越前内の交通の要路に位置した(本章一節三参照)。朝倉光玖の判物にも、河野・今泉両浦は毎日用事があるという理由で、所属する船の船橋用・警備用などへの徴発勤務が免除されている(資6 西野次郎兵衛家文書八号)。この判物の府中奉行人連署の副状においても、両浦の刀に充てて、九頭竜川の高木に架ける舟橋用の船公事用船についてその供出を免除している(同九号)。ところで天文十二年八月に敦賀湊の河野屋舟座惣中(二郎左衛門尉ほか四名)より今泉浦惣中へ充てた定書に、河野屋舟座としては今泉浦へ船を付け、もし一船でも河野浦へ荷を付けたならば今泉浦として成敗あるべしとあり、また惣中以外の船で河野浦へ着くものがあれば押さえ置かれ、注進あれば惣中として成敗するとある(同三六号)。
写真257 敦賀河野屋舟着船定書(西野次郎兵衛家文書)

写真257 敦賀河野屋舟着船定書(西野次郎兵衛家文書)

 永禄十一年(一五六八)四月、川舟座は敦賀郡司の下代である三段崎・上田の両氏に、下浦入買の禁止を解かれるよう訴えた。それにあたり川舟座は屋形(朝倉義景)や気比社への公用を勤める立場を述べている。すなわち気比社社家に毎年升米銭三貫五〇〇文を納め、造営のときは舟公事を奉仕し、また屋形御用として御犬の馬場の砂を三国まで運び、自国・他国の御用に召し使われたいとある。御犬の馬場とは犬追物の馬場のことのようで、「朝倉始末記」に義景が三里浜南部の坂井郡棗荘大窪ノ浜で行なわれた犬追物をみた記事もある。同年十二月には両下代より、川舟座の諸浦入買停止解禁の訴えを前郡司の景紀より義景へ上申したところ川舟座の諸浦入買を解禁するよう指示があったことを通達している。また天正六年二月に干飯(丹生郡牛旁ケ平・米ノ浦・高佐浦など)の者が、敦賀湊の唐人橋の「おりと」(下り口)に着いたところ、川舟・河野屋両座の者がその積荷を押収した。両座がもつ今泉・敦賀間の入舟の権利を侵犯したとの理由からである(資8 道川文書七・一〇号)。



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