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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    四 湊の領知と守護大名領国制の進展
      敦賀湊の廻船と諸役
 敦賀湊を含む敦賀郡は、朝倉氏支配下では敦賀郡司が置かれて支配された(四章二節三参照)。敦賀湊では室町中期ころには船道すなわち船仲間として川舟座・河野屋座が成立していた。川舟座は嶋郷内の舟人により構成されており、廻船業の主力となっていた。嶋郷は敦賀郡野坂荘内に含まれていたようであるが、「敦賀志」によると、川舟座人は近世に出村町とよばれた地域に集住したという。河野屋座もやがて廻船業に加わることになるが、天正年間(一五七三〜九二)には川東へ移り、川東御所辻子町・川東唐人橋町ができたといわれる。
 文亀元年(一五〇一)九月、朝倉氏(郡司景豊か)は川舟中に充てて塩・四十物(合物、塩干魚の類)の公事銭を制定している。若狭・丹後での商いに公事銭六二文、水門(湊)の公事銭六二文、勝載一駄につき同六文、当浦での商いに同二二文とし、旅船については船頭より六四文を徴収するとし、これらは一往復についてのこととしている(資8 道川文書一号)。天文三年(一五三四)二月の敦賀郡司の下代である前波吉長下知状によれば、これより先、川舟衆と河野屋衆の間に紛争があり、その裁決は諸浦の入買は川舟衆のみに認められ、入舟は川舟・河野屋両座にのみ許されるとし、他が入舟を行なったときは荷物など押さえて注進せよとある(同四号)。諸浦は下浦とも記し越前の諸浦をさし、入買は塩・四十物などの買い付けをいい、入舟は荷物の敦賀湊への運送をさすのであろう。



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