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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    四 湊の領知と守護大名領国制の進展
      三国湊の貢納
 室町期斯波氏の支配下において河口荘の政所・公文には守護代甲斐氏、朝倉氏、堀江・溝江氏らの国人衆、また「永享以来御番帳」にもその名のみえる大館教氏のほか熊谷持直・飯尾為数・同為脩らの幕臣、および京都・南都の有力な寺坊の僧などが任じられていた。応仁の乱ののちは朝倉氏が足羽郡一乗谷を本拠として次第に国内支配の実権を把握し、河口・坪江荘も朝倉氏一門やその家臣、堀江氏ら朝倉氏の被官化した国人衆による職人・代官の請所による管理が多くなったが、貢納などの欠怠は免れなかった。
 康正三年(一四五七)八月に新供衆十講への布施として三国湊より一〇〇貫文が本所へ届いた(『雑事記』同年八月二十三日条)。当時三国湊の貢納は新供衆十講料に充てられていたようで、この貢納は下地上分を主としたものであろう。やがて長禄三年(一四五九)九月、籾井三郎左衛門尉信久が本庄郷の政所・公文と合わせて三国湊・坪江郷藤沢名の代官に補任された(同 同年九月十七日条)。ややのちの記録であるが、尋尊は、先年の長禄三年に籾井が三国湊代官を請けたときに納めた敷銭五〇貫文を、彼が地下に入部しなかったので返却することにしたが、新供衆はその敷銭の拝領を願ったと記している(同 文明六年六月二十一日条)。ところで長禄四年三月に幕府は籾井信久に判物を与えて、本庄郷の政所・公文や三国湊などの代官職は大乗院と安位寺殿(経覚)より補任を受け、定めの公用を納めて、下地については信久が領知するよう指示している(『私要鈔』同年三月八日条)。信久は幕府の倉奉行を務め重要な地位にあった者で、幕府はときに河口・坪江荘の政所・公文の補任を斡旋している。下地に入部し支配することにより、下地上分より定まった貢納・公用を納め、残りの収益があったとみられる。
 文明元年(一四六九)十月には、新供衆が朝倉弾正左衛門尉(孝景)に充てて三国湊の件につき書状を送っているが、供料納済についてであろう(『雑事記』以下同)。同三年六月に尋尊は、前年六月に例のとおり参勤した講衆が、三国湊貢納の請口は近来いっこうに納められないため今年は十講が勤行できず、在々所々の神領などは有名無実であると嘆いていると記している。越前国内も東西両軍の抗争が続いたが、文明十三年ころには朝倉氏が越前における支配権を固めるようになった。同十九年正月に新供衆が派遣した使者の報告に、三国湊の供料は請口四〇貫文で朝倉慈視院(光玖)方より二〇貫文を納め、残りの二〇貫文は堀江南郷方より沙汰するであろうとある。これにつき使者は、請口はもと八〇貫文であり四〇貫文とは不審なことだと述べているが、尋尊は使者に対し請口は元来一〇〇貫文であったと告げている。
 明応五年(一四九六)閏二月に尋尊が北国の諸代官について調査し記したなかに、三国湊支配権の半分は牧村方、半分は慈視院方とみえている。慈視院光玖に対し尋尊は好意をもっていたようで、光玖は五日入滅といわれているが実はその死は旧冬のことと記し、河口・坪江荘の年貢はいっこうになしといわれたのを光玖がいろいろ意見するところがあり、「形の如く半済ニ成事」は彼の恩であると記している(同 明応三年正月二十三日条)。三国湊の供料納済についてはその後の史料を欠くが、両荘の貢納の欠怠が増すとともに、同様の傾向をたどったであろう。



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