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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    三 津料および湊の収益
      興福寺と内膳司との争い
 室町初期に供御所の内膳司は、三国湊の津料や交易船方諸公事(交易上分)は内膳司の所当であることを強く主張している。三国湊は以前より内膳司所属の率分所(関)であり、関料(津料)は供御などに充てられていたという。永徳元年(一三八一)五月に奉膳(内膳司に所属し供御調理に従事した役人)を勤める清茂は、住人深町らが内膳司領たる三国湊の廻船交易関所を押妨したことを訴えた。裏辻公仲の奉書により、彼らの違乱を退け雑掌に下地を沙汰すべき旨を武家に仰せらるべしとの後円融天皇綸旨が発せられ、これを西園寺実俊が足利義満に取り次いでいる(資2 宮内庁書陵部桂宮家文書一・二号)。応永十九年(一四一二)十一月に内膳司は訴え、三国湊の田地は内膳司が所管する毎日の供御料所であるが、近年当国住人堀江らが興福寺代官と称し守護被官人の権威をかり押妨するので、院宣を下されて彼らの下地違乱を停止し毎日の供御を勤仕したいと述べている(同三号)。さらに同二十一年三月の内膳司清宣の申状に、三国湊の下地および廻船交易船方諸公事関所(交易上分と津料)は供御料であるが、去年より興福寺代官等の違乱がはなはだしく全く収納がない状態となっていることを訴え、武家から使節を送り所務を全うし、毎日の供御が勤仕できるよう処置してほしいと請うている。清茂や清宣の訴えは、湊の下地も内膳司の領知するところで下地上分もその所当であると主張する。これらの申状に対して、武家側の立場と思われる「三国湊相論意見状」によれば、興福寺は湊の下地の支配権をもち廻船交易上分については内膳司に納入すると主張し、これに対して内膳司はそれを否定して下地の支配権をも主張した。この意見状の判断は興福寺の下地知行を認め、廻船交易などは先例に任せて内膳司に納入することを興福寺が了承して請文を出すよう勅裁を下されるのがよいとしている(資2 東山御文庫記録一六・一七号)。
 長禄三年(一四五九)四月、興福寺大乗院の尋尊が転法輪三条実香と三国湊の件について問答したことが知られる。実香の返答の趣意は、院・禁裏の料所分に対して違乱あるべからずという至徳・応永その他の文書が出ているにもかかわらず守護・被官人が押領しているが、今度は院・禁裏料所分再興の機会でもあろうから実現に向けて努力したいというのである。院・禁裏の料所とは内膳司所管のそれをさすと思われるが、応永以後に津料・交易上分などが十分徴収されていたかは疑わしい(大乗院の知行とされた下地上分の貢納については本節四参照)。
 文正元年(一四六六)閏二月、尋尊は新供衆の要請を受けた経覚と申し合わせ、内膳司方の意見に対して案文を作成した。それは広橋綱光の言い分に対応したもので、綱光の言い分とは先の実香の返答と同趣旨のものであったろう。興福寺の主張を記した案文の内容は、三国湊は正応年中(一二八八〜九三)に新三十講料所として寄進された一円不輸の寺領であり、新供衆らの知行するところであるが、禁裏供御料所と称して内膳司が訴えたため、応永十九年に興福寺大乗院より公家・武家に訴えて、内膳司申状は棄捐されたというものである(『雑事記』文正元年閏二月七日条)。下地は大乗院、津料・交易上分は内膳司の知行との裁定をいうのであろう。



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