目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    三 津料および湊の収益
      三国湊の津料と収益
 永仁五年(一二九七)検注が行なわれたころ、坪江下郷三国湊より興福寺大乗院へ納められる貢租には、年貢米・天役などのほか越中網鮭など漁家の営業税ともみられる水産物も含まれている。三国湊では、年貢・天役は他の地に比べてむしろ少ないが、経済力のある湊に課された在家地子・長者銭などの特殊な賦課が注意されよう(「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)。三国湊において、入津の船に津料を課徴したことが鎌倉末期にすでにみられることは、若狭志積浦の廻船について前述した。延慶三年の注進によると、三国湊雑掌の得分として、天役銭二七貫文のほか塩船津料一八貫文・北河河口津料一貫文・津料榑二〇〇余尺があったという(同前)。これらはみな津料とみられる。雑掌は三国湊政所(資9 安倍伊右衛門家文書一五号)に該当するが、三国湊雑掌の称は南北朝以後はみられなくなるようである。政所とは本所大乗院より委任された管理者のことであった。
 幕府は文永末年ころ(一二七五年ころ)に西国の新関停止を命じており、正安三年(一三〇一)ころに再びこの停止令を発して、朝廷の承認も得ていた。正和五年五月の三国湊雑掌より興福寺に充てた申状によれば、大和長谷寺などが三国湊津料を徴収していたが、文永以後新関停止令がこれに適用され、津料停止を執行する武家の使者が強引に入部してきたことが知られる。さらに建武元年六月に津料停止が命じられたにもかかわらず、津料と称して諸国よりの済物などが押取されていたようで、建武新政府はこれを厳禁している。それより十数年後の観応年間(一三五〇〜五二)に、長谷寺の申状を柳原資明の手で興福寺へ届け、長谷寺は津料領有を認められている(「大乗院文書」)。長谷寺は十世紀末に興福寺末となり、大乗院門跡がその別当を相承することになっていた。三国湊津料が一時的に寄進されたのであろうが、順調に納入されたかどうかは疑わしい。
 さて三国湊からの収益として、津料(関料)のほかに下地上分・交易上分があった。下地上分は領知人が下地より課徴する貢租・公事物であろうし、交易上分は出入船の物品取引について徴収するもので、津料とともに交易上分は湊の独自な収益をなしていた。鎌倉末期には上分を内侍所日次供御所と湊雑掌が折半して徴収したという。



目次へ  前ページへ  次ページへ