目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    三 津料および湊の収益
      敦賀湊の升米・小浜湊の馬足料
 治暦元年(一〇六五)の官符に、敦賀津や気山津などで勝載料と称し調物の運送に課役を徴収したことがみえることは前述した。勝載料は升米と同義に用いられ、また津料とも称せられた。鎌倉期から室町期初めにかけて、敦賀湊において、年貢米などを積み入津する船に対し升米と称して石別一升の米穀を課徴し、社寺修造料などに充てて寄進したことがみえる。
 徳治二年(一三〇七)に敦賀津升米は伏見上皇院宣により西大寺四王院・醍醐寺および祇園社の修造料とし五か年を限り寄進された。五か年を過ぎた正和二年(一三一三)九月、さらに西大寺四王院・祇園社の造営料として五か年寄進されたが、同四年八月当年より五か年は醍醐寺造営料として付与されたため、西大寺四王院・祇園社の造営料はともに同四年かぎりの寄進とされた。いずれも伏見上皇院宣によるものであった。翌五年閏十月には、敦賀津升米と雑物一〇〇分の一の課役を祇園社神輿造替料として、当年より六か年を限り同院宣によって寄進されている。なお延慶年間(一三〇八〜一一)ころ気比社に与えられていた敦賀津升米が延暦寺大講堂造営料として寄進されたという。気比社は当時天台座主の管下にあった。以上みたように、升米は何か所かの寄進先へ配分されたのである(資2 西大寺文書)。
 敦賀津升米について、祇園社太子堂円教房が同社の奉行であったころ、祇園社造営料として寄進するという院宣が保存されていたとある(「祇園社文書目録」)。文和元年(一三五二)十一月二十八日には敦賀津升米につき太子堂のもとに赴き質問した記事もみえ(「社家記録」三)、八坂神社文書にある暦応四年(一三四一)八月の敦賀津升米を祇園社造営料所として寄進するという光厳上皇院宣写がそれに相当するのであろう(資2 八坂神社文書一号)。室町期においては敦賀津升米について記録を欠くようであるが、すでに建武元年(一三三四)に津料禁止の政務方針がとられており、停止されることが多かったとも思われる。
写真256 右衛門尉義幸遵行状(塚本弘家文書)

写真256 右衛門尉義幸遵行状(塚本弘家文書)

 小浜湊では、康暦元年(一三七九)十二月に臨川寺領年貢運送につき小浜津馬足課役勅免の綸旨を伝えて勘過すべきことを、幕府は若狭守護山名時氏に命じている(同一四号)。文和四年十月には税所今富名内の大飯郡大島八幡宮に若狭守護細川清氏の寄進状が届けられたが、それは入船馬足料より三貫文を毎年小浜刀として進めるというもので(資9 塚本弘家文書一・二号)、小浜湊では入船の揚げ荷の駄載に対して役を課徴していた。



目次へ  前ページへ  次ページへ