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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
     二 廻船業者・問の進出と湊町の繁栄
      湊町と寺社
 湊町の都市としての繁栄や文化を考えるうえで、寺社の建立やその伝存のもつ意味が注意される。多数の戸口が集まり、商業が興り経済力が強く、これらを背景・地盤として寺社が栄え、特に中世の新仏教諸宗派の多数の寺院が創立されて、今日まで地方の名刹として多く存在している。
 敦賀の湊町は気比社の門前町がその一半を構成し、その神祭諸行事は湊町の繁栄を象徴するものでもあった。浄土宗善妙寺は正元元年(一二五九)空覚が創立し、妙顕寺は鎌倉末期に日像の教化により真言宗より法華宗に改宗して寺名を改めたという。曹洞宗永建寺は応永二年小室真宗の開創といわれ、同宗永厳寺は応永二十年に永建寺三世住持東渓宗陽が創建し、近世初めに打它宗貞により現在地(敦賀市金ケ崎町)に移されたという。やはり曹洞宗寺院に、もと天台宗の廃寺を天正二年道川三郎左衛門の手で再興されたと伝える永覚寺がある。西福寺は湊町の郊外に所在するが、応安元年(一三六八)良如が創建し、書院・庭園は国指定名勝、重要文化財五点、また中世古文書をこの地域で最も多く保有する浄土宗の名刹である。
 三国湊の地域では、滝谷寺・性海寺の両寺が真言宗でともに中世古文書を伝存し、滝谷寺には国宝や重要文化財のほか国指定名勝の庭園がある。滝谷寺は空信の弟子睿憲の創建で、醍醐寺報恩院隆源に学び報恩院末寺として寺法を定めている。性海寺は延文元年空信が宿(三国町宿)の篠谷に律院性海寺を創建し、弟子慧範が永徳元年(一三八一)真言宗に改宗し現在地(三国町下西)に移したという。両寺とも近世に新義真言宗智山派に所属した。三国湊には泰澄の開基と伝える白山千手寺仏性院があったが、南北朝の争乱のとき衰退した。真宗勝授寺は専修寺賢会の遺族が天正十七年当地に移り、顕如より寺号を与えられた。天正二年に一向一揆が越前を制し、織田軍にそなえて鉢伏に篭城中に賢会が加賀国石川郡諸江坊(金沢市)に充てた賢会書状は著名である(資4 勝授寺文書一八〜三一号)。
写真255 明通寺三重塔(小浜市門前)

写真255 明通寺三重塔(小浜市門前)

 若狭の古代の政治・文化の中心は、小浜湊の地に近接している。羽賀寺・妙楽寺は八世紀、明通寺は九世紀の創立といわれる真言宗の古刹であるが、中世に修造された建築が現在に残って国宝・重要文化財に指定されている。小浜湊の地域には、中世に創立された鎌倉仏教の寺院が多い。法華宗長源寺は康暦二年(一三八〇)本覚寺僧の日源の創建といわれ、武田元光が後瀬山城を築くため同山麓より現在地(小浜市酒井)へ移転させたという。妙光寺は貞和三年(一三四七)比叡山南谷の蓮智が覚如の門に入り建てた浄土真宗の寺である。浄土宗誓願寺は永享元年(一四二九)頼順の創立、法華宗本境寺は永正元年(一五〇四)日因の開基という。臨済宗栖雲寺は文明十五年武田信親の建立と伝えるが、「税所次第」には応永九年と同十四年に足利義満が栖雲寺へ来遊したことを記すので、当時すでに存在したことになろう。栖雲寺はもとは現在の常高寺の地にあり、同寺創建のとき現在地(小浜市浅間)に再建された。時宗の西福寺は十五世紀末にはすでに存し、中世文書の所蔵は長源寺とともに多い。臨済宗高成寺は暦応二年(一三三九)足利尊氏・直義兄弟の建立にかかる安国寺の一つであったが、守護大高重成が高成寺と改称して大年法延を招き開山とした。万徳寺は、応安年中(一三六八〜七五)に覚応法印が廻国してきて天台宗極楽寺を正照院と改めたが、慶長七年(一六〇二)寺号を万徳寺と改めた。若狭における真言宗の名刹である。



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