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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
     二 廻船業者・問の進出と湊町の繁栄
      湊町の発達
 近世では城下町が地方の都市の主流となるが、中世では湊町が地方の都市を代表するものとして発達した。
図053 中世の敦賀

図53 中世の敦賀

 敦賀湊について、延慶二年(一三〇九)に充所「敦賀津鳥辻子左近允」とある文書がある(資2 西大寺文書九号)。鳥居辻子町は気比社の西門大鳥居の西方に成立した門前町で、近世の鳥居辻子町へつながり、古くから発達した町の一つであろう。文亀三年(一五〇三)九月に西福寺子院善聚院所有の田地の所在地として「一所唐人橋」とあり(資8 西福寺文書一四九号)、文亀元年三月二日付の三郎左衛門らの田地売券の三郎左衛門の文字の片に「たうしかはし」と記している(資8 永建寺文書九号)。近世の地誌である「敦賀志」には、中世に和泉国堺から唐円という唐物商いの商人が来て笙ノ川に架けた橋を「唐円が橋」と称したのが訛って「唐仁が橋」となったのであろうと記している。ここは川舟・河野屋の両座の船の荷物の積みおろし場でもあった。唐人橋の架橋の以前から船着場であったようである。
 湊は水陸交通の要所であり、ここに連接した地点に城塞が築かれた。建武三年(一三三六)新田義貞は恒良・尊良両親王を奉じて金ケ崎城に入って南朝軍の根拠地とした。その落城後もここはしばしば諸将の占拠するところとなっている(二章一節参照)。
 三国湊では古くから経ケ岡の南辺に主として集落が形成されたと推定される。千手寺は経ケ岡の丘陵に構築されて、南北朝期には城塞として利用されて湊城とよばれた。大門町は千手寺正智院の門前に成立して、隣接した元町・中町(中元町)とともに中世において湊の中心街をなしたようである。
写真254 市の塔(小浜市和久里)

写真254 市の塔(小浜市和久里)

 小浜の名は、乾元二年(一三〇三)の「詔戸次第」に「八幡三所(中略)在小浜」とあるのが初見といわれる(資9 若狭彦神社文書一号)。先に述べたように、このころより今富名の湊として興り、海陸の便を合わせもって湊町として発展した。延文三年(一三五八)七月に沙弥朝阿(長井雅楽介の入道名とされる)が小浜に建てた宝篋印塔は、市場町にあったことから「市の塔」と称されていた(現在は小浜市和久里の西方寺境内にある)。室町期になると、宝徳三年(一四五一)守護武田氏が関所を構えて小浜への往来を妨げたとき、遠敷郡太良荘の百姓が当荘は「一日も小浜へ出入り候ハではかなわぬ在所」であるのではなはだ迷惑であると訴えているように(ぬ函一〇六)、小浜はこの地域の中心都市に成長している。
 すでに述べたような問や絹屋主計のほか、室町期以降には小浜の商人として伊賀屋彦四郎・近江屋彦四郎がみえる(「明通寺寄進札」『小浜市史』金石文編)。武田氏のもとでは「小浜中蔵方」と総称される金融業者の存在も知られるが、三方郡御賀尾浦(三方町神子)の大音氏が質物を入れていた「大もんし屋」はその一人であろう(資8 大音正和家文書二四二・二六五号)。また小浜の町の地名として南北朝期以降に中小路・石屋小路・今小路・塩浜小路・松寺小路などがみえ、人家集住の様子をうかがうことができる(資9 妙楽寺文書一号、西福寺文書三四号、願慶寺文書三号、「明通寺寄進札」)。



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