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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
     二 廻船業者・問の進出と湊町の繁栄
      廻船業者と問
 中世より近世にかけて敦賀・小浜は、畿内と北国、西日本と蝦夷地を結ぶ日本海海運における要津の地位をいよいよ重くし、人の往来や物資の出入りが増加した。また三国湊はそれら廻船の寄航地、越前の木ノ芽峠以北にあたる地域の物資の出入港として栄えた。そして越前・若狭の港津を拠点に物資の運送・売買に従事した廻船業者や、またそれを兼ねる住人も多く、物資の運送・売買・保管や船人宿所などを営む問(問丸)が輩出した。
 問の具体的な例は小浜湊に多くみられる。貞治三年(一三六四)税所今富名を獲得した山名氏の代官は政所と宿をそれぞれ問の心性と道性のところに置いて支配にあたったという。さらに一色氏の守護所は西津に置かれていたが、税所代官・又代官は今富名の湊として水陸交通の要衝に発展した小浜湊に駐在した。明徳二年(一三九一)十二月に一色氏の代官小笠原浄鎮の又代官武田浄源は入部して問の左衛門三郎の宅を宿としており、応永六年(一三九九)に代官石河長貞と又代官片山行光は政所屋を刀宗覚の宅においた。さらに同二十八年七月、小浜問丸らは税所代三方常忻の又代官長法寺道圭を訴えて改替することに成功しており、政治的にも力を強めていた(「税所次第」)。応永十五年六月に小浜湊に着岸した南蛮船の乗員は問丸本阿弥の宅に宿泊し、同十九年に来航の南蛮船の乗員も同じく本阿弥宅を宿所とした(南蛮船については本節五参照)。文明元年(一四六九)十二月に今富名内の小石丸名を池田定員に売却した小浜問丸中西次郎右衛門のように、周辺で名田の得分をもっていた者も多かったに違いない(「政所賦銘引付」)。天文十九年(一五五〇)十月十五日には、遠敷郡稲積(今富)荘の正月・二月・十二月の年貢は問丸が徴収し納入していたことも知られる(『言継卿記』同日条)。
 三国湊では、室町期の問丸について史料が少ないため具体的に知りがたい。文安四年(一四四七)六月に越前に下っていた大和興福寺の使者徳市法師が興福寺の経覚のもとに書状を寄せて、坂井郡河口荘の細呂宜郷下方年貢を厳重に催促したもののなお無沙汰であるが、まず割符(為替手形)一つを進めることになったと報じた。八月経覚の上洛中に徳市は上洛して割符一つを持参したが、これは前年分年貢であった。十一月には細呂宜郷納付の割符二つが経覚のもとに届いた。一〇年後の長禄元年(一四五七)十一月にも上洛中の経覚のもとに、朔日に割符三つ、十九日に割符二つが届けられた(『私要鈔』同日条)。これらの割符は三国湊の問丸が取り組んだと考えられ、為替を営み広く取引関係をもつ有力な商人の存在が推測される。
 敦賀湊については、文永七年(一二七〇)の「延暦寺勧学講条々」において、当時の物資集散の状況と問の存立、その役割が知られる。延暦寺勧学講の料所として吉田郡藤島荘上郷・下郷の莫大な年貢米が充てられており、それらは三国湊より敦賀湊に運送され、陸揚げされて近江国海津まで駄送された。「勧学講条々」には「問職事」としてその役割などが記されている。米を陸揚げするのは綱丁(年貢・公事などの輸送責任者)であり、海津まで駄送するのは馬借である。問は年貢米を請け取り、輸送の手続きなどをし、運送米一〇〇石につき一石の手数料を徴収したという。
 敦賀湊では室町中期には、船道すなわち船仲間として川舟座・河野屋座が結成されており、運送売買に近海で活躍した。天正年間(一五七三〜九二)には廻船業者として川舟三郎左衛門の名が知られるが、彼は道川氏で、室町中期以降の川舟座関係文書が道川家に伝存した点から考えても、そのころ道川氏は廻船業者として活躍していたと思われる。そして問をも兼ねたであろう。



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