鎌倉末期ころには津軽地方と越前の間にすでに海運が開かれていたことは先にふれたが、若狭にも及んでいたであろう。「羽賀寺縁起」によれば、遠敷郡羽賀寺の堂舎は永享七年(一四三五)に焼失し翌八年四月本堂は建立されたが、奥州十三湊の「日之本将軍」安倍康季が莫大な銭を奉加しており、文安四年(一四四七)十一月に本尊を遷座したとある(資9 羽賀寺文書一五・五五号)。のち文禄四年ころ同寺の堂宇が破損したが、青蓮院尊朝法親王の勧告による秋田実季の懇志によって修造できたという。実季が述べるところによれば、羽賀寺は先祖安倍康季も再興したところであるが、いま廃壊に及んだので、尊朝の勧めにより先祖の例にならい修造を領承したとある(東北大学蔵「秋田家文書」)。先にも述べたように実季らは文禄四年より慶長四年にかけて伏見作事用板などを敦賀へ送っているが、小浜湊の廻船も少なからずこの運送に従事していた。また寛正四年六月には、小浜湊に奥州十三湊と関係のあるように思われる十三丸という大船が入港しており(「政所内談記録」)、戦国期ころには小浜湊と宇須岸(北海道函館市)の間に毎年三回の商船往来があり、往航に上方の産物を積み、復航に蝦夷地産物、特に昆布を積んだという(函館図書館蔵「新羅之記録」)。狂言「昆布うり」は「若狭の小浜のめしの昆布売」を主人公としており、若狭で加工された昆布は京都で有名であった。 |