目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    一 日本海海運の発展
      小浜湊興隆と西日本海運
写真252 小浜港

写真252 小浜港

 鎌倉中期ころ遠敷郡多烏浦の船が幕府より諸浦津料などの免除勘過の旗章(過所船旗)を与えられている。また永仁七年(一二九九)には同浦の泉太郎とよばれる船が出雲国の王尾津に往返している。王尾津は、王尾が三尾の誤字で美保津(島根県美保関町)とも、また大津(島根県出雲市)とも考えられる。これと前後して、すでに述べたように、志積浦の廻船が三国湊で足羽神宮寺勧進聖により関料米六石を課徴された事件もあり、矢代浦の廻船が三国湊に出入りしていたことや、御賀尾浦(三方町神子)の船が足羽郡北庄で塩・銭を奪われたことも知られている(一章五節二参照)。
 多烏・志積浦などの廻船活動は、室町期以後は漁業を主とする生業の方向に次第に重点が移り、また鎌倉期に進行した海退の影響を受けて気山津に入船ができなくなったこともあり、若狭では税所今富名内の湊である小浜湊が海運の中心として興ってきた。暦応三年九月、幕府は若狭守護尾張左近大夫将監(斯波高経)に命じ、臨川寺雑掌の申請により、寺領加賀国大野荘年貢を小浜湊の問居(問屋)に検納し警固を加え京都へ運送するよう下知方を指示している(資2 天龍寺文書一号)。
 このように興隆してきた小浜湊について、まず西日本海運の様相からみておきたい。応永十九年(一四一二)十二月に小浜着岸の鉄船に課す公事を直納せよとの内裏からの命を受けた幕府は、これを守護一色義貫に伝えており、小浜湊には翌二十年三月に通達された(「税所次第」)。鉄船つまり鉄を積載した船は、出雲国宇竜浦(島根県大社町)あたりより出帆したのではないかと考えられる。永禄十二年(一五六九)十二月に尼子勝久より宇竜の鉄駄別を日御碕社(島根県大社町)に寄進した例があるが、宇竜浦より出船した鉄船の鉄駄別役の寄進であろう。また隠岐の諸所の廻船について、出雲国守護の京極生観(持清)は文明二年四月に守護代尼子清定に充てて書状を送り、美保関で関役を納めない船は先例のとおり若狭の小浜において徴収することとし、関役を難渋する者は成敗せよと記しており(資2 佐々木文書四号)、出雲や隠岐方面と小浜湊の海運事情が知られる。美保関関役を納めなかった船からの関役を小浜で徴収したのは、在洛する京極氏財務の便宜のためである。そののち生観の跡を継いだ政高は、文明四年と推定される守護代清定充ての書状において、一昨年小浜で船公事を申し付けたが船公事不納の船については宥免することを承認し、二〇貫文を受け取ったとしている(同六号)。文明八年五月の清定充ての政高書状には、美保関公用のうち当年分としての先納一五〇貫文を割符(為替手形)一五をもって請け取ったとし、このうち割符一三の分について若狭より京都までの夫賃以下は追って算用すると述べ、関役収入があればこの書状にもとづき精算し、現時勢下において関役未納のときは他の料足によって返弁すると記している(同五号)。これとは別に、永正三年(一五〇六)小浜の絹屋主計が伯耆の商人国屋又四郎の貸借の請負人となっているが、これも小浜湊と山陰間の交易がさかんであったことを物語るものである(『蜷川家文書』三八八号)。
 鎌倉末期には日本海を「筑紫船」が往来していたことから(『太平記』巻七)、北九州と小浜湊との海運も頻繁に行なわれていたことがわかる。寛正六年(一四六五)には対馬国守護宗成職の派遣船が小浜湊に入っている。幕府奉行人布施貞基は同年七月十三日に書状を小浜の代官伊賀次郎左衛門尉に送り、成職の進物船が小浜湊に着岸したときには間違いのないように取り計らうよう指示している(『親元日記』同日条)。文明十年七月二十五日には周防の大内政弘より幕府へ贈られた唐物が小浜湊に着けられており、小浜から京都までは守護武田国信の人夫が運んでいる(「蜷川親元日記」同日条『大日本史料』八―九)。文明八年に李氏朝鮮の使者が壱岐に日本の将軍へいたる道を尋ねたときには、壱岐や博多の商人たちは瀬戸内海の海賊を避けるため日本海路をとって若狭に上陸し、そこから近江今津・坂本を経て京都にいたると答えており、戦乱時には日本海通航が一般的であったことを示している(「成宗大王実録」七年(大明成化十二年)七月丁卯条)。



目次へ  前ページへ  次ページへ