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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    一 日本海海運の発展
      三国湊と海運
写真251 三国港

写真251 三国港

 九頭竜川河口の津である三国湊は中世には越前主要部の物資の出入口として繁栄し、隣接する佐幾良(崎浦)・加持羅(梶浦)・阿ん多宇(安島または三保浦)の坂井郡三ケ浦や阿古江(三国町新保)も同じ役割を果たした。三国湊・三ケ浦・阿古江は興福寺領坪江下郷に所属する(二章四節四参照)。三国湊ではまた北国より畿内へ運送する貢納物などを積んだ廻船などが、風待ち・風よけのため寄泊もした。それは先にふれた秋田実季らが敦賀湊へ送った伏見作事用板などの運送船の例にも少なからずみられる。
 十四世紀初頭のころ、若狭遠敷郡志積浦の廻船は三国湊において足羽神宮寺勧進聖に関料米六石を課徴された(資9 安倍伊右衛門家文書一四号)。また嘉元四年(一三〇六)には関東御免の津軽船二〇艘のうち随一の大船が崎浦に停泊したところ、三ケ浦の預所や刀が漂倒船と称して積載物を没収したので、越中国東放生津(富山県新湊市)住人の本阿の代理者が幕府へ訴えた事件もあった(二章一節一参照)。津軽船を安東氏管下の十三湊(青森県市浦村)の船と考える説もあるが、東放生津所属の津軽へ往返した船とする説も成立する。
 室町期の三国湊・三ケ浦などの海運の具体的状況は、史料が少ないため多くを知りがたい。津軽地方との海運は、前述のように鎌倉期にすでにみられたが、若越の廻船は中世末期より下北半島方面へも出向くようになったといわれている。野辺地湊(青森県野辺地町)の五十嵐甚右衛門家の初代は、越前の三国より天文四年(一五三五)にこの地に移住したと伝える(「五十嵐甚右衛門家文書」『野辺地町郷土史年表』)。また天文二十年には三国湊に明の船も入津したと伝える(「朝倉始末記」)。天正元年(一五七三)織田信長は朝倉氏を滅ぼし、足羽郡北庄の橘屋に同郡の三か荘においての軽物座を先規どおり安堵し、翌二年正月に唐人の座(唐物を商う座)・軽物座を三か荘のほか三国湊にも認め、役銭として絹一疋を徴収する特権を認めた(資3 橘栄一郎家文書八・九号)。三国湊の商業はすでに隆盛であった。



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