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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    一 日本海海運の発展
      敦賀湊と海運
 若越の地は、古代より日本海の海の道を通り、畿内から北国諸国へ往返し、またこれら諸国から貢納物などを畿内へ届ける窓口の地位を占めた。中世に入り廻船業の発達により、敦賀・三国・小浜の湊町が栄えた。海運は東北は津軽地方に及び、また若狭では西日本との海運もさかんとなった。
 敦賀湊は古代より北国から官物が廻送され、近江国海津・塩津へ送られ、琵琶湖上を通り京都へ運ばれる継ぎ目の要津であった。治暦元年(一〇六五)越中へ下された官符に、調物の運送のさいに敦賀湊・若狭の三方郡気山津・近江の海津などで、刀らが勝載料として調物を拘留し公物を割取することが記されている(資1 「勘仲記」弘安十年七月十三日条)。鎌倉期には敦賀湊に鎮座する気比社へ北陸諸国諸浦から海産物が貢進されて神饌として供せられ、また本家(九条家)や大宮司家の得分とされたが(一章四節二参照)、いずれも頻繁な海運の一端を語るものでもあろう。また京都臨川寺領の加賀国大野荘(金沢市)の年貢は小浜湊へも送られたようであるが、暦応四年(一三四一)二月に室町幕府は若狭・越前守護斯波高経に対して、大野荘年貢が敦賀・小浜に着岸のときには違乱なきよう指示している(資2 天龍寺文書二号)。観応三年(一三五二)六月には、幕府筋より東福寺領の加賀国熊坂荘(石川県加賀市)の年貢を京都へ運送するにあたり、敦賀湊および路次において違乱なきよう管下の者に命じている(資2 尊経閣文庫所蔵文書二五号)。
 応仁・文明の乱のさいに、西軍の大内氏は兵粮米を京都方面へ運送するにあたり、瀬戸内海を避けて越前を経たという。文明四年(一四七二)八月、東軍に属した朝倉氏は甲斐氏の軍を破り越前国中で勝利を収めたと伝えられた。興福寺大乗院の尋尊は、大内氏らの兵粮米は越前を通路とするが、このような状況ゆえ西方大名が「旁迷惑」したと記している(『雑事記』同年八月二十八日条)。越前の道とは、兵粮米を敦賀湊に陸揚げしたことを示しているようである。
 近世初期の文禄四年(一五九五)より慶長四年(一五九九)にかけて、出羽の秋田実季や小野寺義直らの手で伏見作事用板などが敦賀湊に運ばれ、敦賀湊の廻船も多くこれに従事しているが、三国湊などの例から津軽方面との海運もそれより早く開けていたものと思われる。



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