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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    四 銭貨の流通
      金融活動の諸相
 代銭納が一般化するようになり、現金の決済に割符といわれた手形をもってする為替が用いられるようになった。このような金融活動を担ったのが割符屋である。太良荘の事例では、応永十八年(一四一一)の代官朝賢による東寺への注進状には、東寺に送った割符は割符主が上洛したうえで割符ごとに指定された日限をもって支払いが履行されることが記されている(し函八二)。さらに翌十九年の代官朝賢・公文弁祐の注進状によると、若狭から送付した為替が京都において確実に授受されたことを確かめたうえで、初めて米を商人に渡すことを書き送っており(し函八五)、ともに為替利用の様子がうかがえる。
 坂井郡河口・坪江荘における銭納の様子を検討すると、「割符一」が銭一〇貫文の割合で計算されている場合が多く(「細呂宜下方引付」)、割符屋として「泊瀬之俵屋」が所見する(『雑事記』文明十六年六月三十日条)。この俵屋は大和長谷寺住人であるとともに、本来は大和国の交通の要衝であった木津(奈良県東吉野村)出身の人物であった。坪江郷においては室町期に「長崎百足屋」が現われるが、具体的な活動まではうかがえない(「大乗院記録」七)。

表58 太良荘泉大夫の財産目録(宝徳2年)

表58 太良荘泉大夫の財産目録(宝徳2年)

 貨幣経済の進展とともに、太良荘の農民が「一日も小浜へ出入仕候ハでハかなわぬ」と述べているように(ぬ函一〇六)、村落と都市との結びつきも深まることになった。このような農民の中心になったのが、貨幣の貸借を通じて富を蓄え、守護が荘園に対する賦課とは別に要銭を課す対象として指定した「百姓中器用」とされるような者たちであった(ハ函三七四)。このような者の一人に、料足二貫文の質に八歳の子をとった泉大夫がいる(ハ函三六〇)。彼の生活の実態を財産目録からみたのが表58である(ハ函二三九)。
 このような農民の経済活動の発展にともなって、庶民金融である頼母子(頼子・憑子)の発生がみられた。長禄三年(一四五九)には、太良荘の平大夫が頼母子の懸米を無沙汰したため、追放されて下地が奪われたことが知られる(ハ函三一二)。また寺院は寺家の修理資金を捻出するために「経頼子」を行なっていたが、若狭武田氏はこの頼子には徳政令が適用されないことを保証している(資9 西福寺文書三二号、明通寺文書一三五号)。また武田氏自身も家臣の給分に充てるため寺社などを対象に「千石頼子」を実施し、家臣が懸米の請取を発行している(資9 明通寺文書一二七〜一三〇号)。



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