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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    四 銭貨の流通
      銭貨流通の実態
 銭貨流通の実態について、売券に記された支払い手段を通じて検討する。売券の内容は土地・家屋などの取引が一般的で、これらの取引は市場を経由しない個人間の取引であるが、売券にみえる支払い手段の変化の傾向は、市場などにおける商品取引の変化の傾向とほぼ同じであるといわれている。表55は越前と若狭における売券を一〇年単位で支払い手段別に集計したものである。

表55 南北朝期以降の売券にみえる米銭

表55 南北朝期以降の売券にみえる米銭

 それによると、越前では一五六〇年までは二件を除いてすべて銭による支払いであるが、一五六〇年代以降から米を支払い手段とした売券が多くみられ、一五七〇年以降は銭を支払い手段としたものを上回るようになる。若狭でも、一五七〇年までは銭による支払いが圧倒的で、一五七〇年以降は米による支払いが中心となる。このように、越前・若狭ともに一五七〇年代から銭に代わって米の使用が中心になっている。このような傾向は西日本のほぼ全般にわたってみられ、さらに米の使用から銀の使用へという変化が十七世紀ころから表われてくる。
 このような銭から米への変化は、十五世紀後半以降顕著になってくる撰銭が行なわれたためと考えられる。幕府も明応九年(一五〇〇)以降、二〇回近く撰銭令を発布して撰銭を規制したが十分な効果はなかった(『中世法制史料集』二)。このように悪銭が貨幣流通を阻害したとすれば、銭の信用が低下し、米が銭に代わって価値基準・支払い手段として活用されざるをえなくなる。天文十四年に深岳寺納所宗才は、坂井郡春近郷末平名の本役銭に五貫文の悪銭があるため、京都の如意庵に悪銭をどのように処理するかの判断を求めている(『大徳寺文書』三〇四二号)。さらに翌十五年にも、悪銭があるため銭を米に交換して如意庵に送付したことが知られる(同三〇四三号)。このとき「国中代ニテ売買は、壱貫文を五百、百文を五拾ニ調候」とあって、悪銭の価値が低いことが具体的にうかがえる。
 若狭においても、のちに東寺修造の大勧進上人となる正覚院宝栄は、嘉吉二年(一四四二)のころ遠敷郡太良荘に下向していたが、彼が東寺から受け取った三貫文のなかに悪銭が一五四文紛れ込んでいたため、それを補うために現地で一〇〇文を調達したことが知られる(ヌ函三一二)。



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