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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
     三 浦・山内の馬借
      敦賀湾舟運と西街道
図51 西街道と馬借関係集落

図51 西街道と馬借関係集落

 敦賀から府中に到達する経路には、北陸道をもっぱら徒歩で木ノ芽峠―南条郡今庄―府中とたどるもののほかに、敦賀湾内の舟運を利用して南条郡河野・今泉浦、または蕪木(甲楽城)浦に上陸し、前述のようにここから西街道を南条郡湯谷―丹生郡勾当原―勝蓮花―南条郡広瀬―府中、もしくは湯谷―中津原―春日野―府中と進む経路があった。舟運利用によって徒歩部分を最短にできるので、年貢米など重量物の運送にはこの経路がよく利用されたと推測され、また一般旅行者もおおいに通行した。馬を用いて荷物を運搬し、駄賃を稼いだ交通業者を馬借とよぶが、特にこの西街道を行き来した馬借の史料は、敦賀・今立郡水落・三方郡佐柿など他の地域の馬借史料をはるかにしのぐ質量があり(「勧学講条々」、「清水文書」『越前若狭古文書選』、『三方郡誌』)、実態を詳細に把握することができる。なお西街道に沿った湯谷・勾当原・別所・中山・八田などの山間部集落は、中世では「山内」と汎称されているが、これはこの地域が山干飯郷に属したことにちなむものであろう。
 ところで舟からの上陸地点に関して注目すると、それには重大な変遷があった。すなわち、南北朝期以前には蕪木浦に上陸したが、室町期以降には河野・今泉浦に上陸するようになるのである。まず鎌倉期の説話によると、「けいたう坊」という山伏が蕪木浦で舟賃を支払わずに渡し舟に乗ろうとしたと語られ(『宇治拾遺物語』三)、蕪木浦が渡し舟の出発地であったことがわかる。ついで南北朝期でも、北陸方面に向かう恒良親王を気比大宮司太郎が小舟に乗せて蕪木浦に送り届けたと記されており(『太平記』巻一八)、蕪木浦は敦賀湾舟運の上陸地点であった。ところが室町期になるとこの蕪木浦の地位には著しい変動がおき、河野・今泉両浦および山内の下位に属すると規定されているのである(資6 西野次郎兵衛家文書一六号)。この蕪木浦の衰退の原因は、これまでの蕪木浦を起点とした西街道の経路が変更され、新たに今泉浦を起点にした短距離の経路が開かれていたためと推測され、その結果、舟の入港地点も今泉浦または隣接の河野浦に変更になったものであろう。新経路整備の時期については詳らかではないが、すでに寛正六年(一四六五)の馬借中定書で、今泉浦の馬借問屋中屋左衛門に絶大な権益が集中していることが知られるから(同一号)、寛正年間をややさかのぼる時点で道路整備が実施されていたものと思われる。



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