目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
     三 浦・山内の馬借
      馬借の権益保護
写真247 山内馬借中定書(西野次郎兵衛家文書)

写真247 山内馬借中定書(西野次郎兵衛家文書)

 さて、河野・今泉両浦と山内に居住した馬借に関する初見史料は、寛正六年五月に小守護代一井・平右馬両氏が発した裁許状の写である(資6 宮川源右ヱ門家文書一号)。それによると、塩・榑(杉・桧などの木材のうち、長さ一丈二尺、幅六寸、厚さ四寸に加工されたもの)および諸商売荷物の運送は、河野・今泉両浦の馬借が半分、山内の馬借が半分の配分とすること、また逆に府中から両浦までの返り荷は、両浦に三分の二、山内に三分の一の配分とすることと規定されるとともに、馬借中を通さずに塩・榑を直買・直売(直接の取引)することを禁じて、馬借の特権を容認している。ついでこれを受けて同年六月に、勾当原・湯谷・別所の馬借中が連署して定書を作成し、1今泉の中屋左衛門のもとへ出入りして商売をしてはならず、また左衛門のもとに届けられる里荷を運んではならないこと、2仲買人が扱った荷物を運送する者は馬借中から排除すること、3里買(里の商人の直接買付け)の塩・榑を、そうと知りながら知らぬふりをした馬借は処罰されること、4山内・両浦の相論費用を配分するさいには、勾当原・湯谷・別所が半分負担、中山・八田が半分負担であるから、浦・里から出された荷物の運送割当も、勾当原・湯谷・別所で半分、中山・八田で半分とすること、以上の四点を定めている(資6 西野次郎兵衛家文書一号)。連署する馬借の人数は、勾当原が九人、湯谷が三人、別所が三人で、これがこの時期の各集落の馬借株の数と考えてよかろう。中山・八田の馬借も同様に定書を作成したものと考えられるが、残念ながら今に残されていない。
 延徳二年(一四九〇)になって、河野・今泉両浦と山内の馬借の間で荷物配分の規定をめぐって相論がおこるが、府中駐在の青木康忠・久原行忠が山内馬借中に下した裁許状では、寛正六年の一井・平右馬奉書の規定に従うべしとの決定がなされている(資6 宮川源右ヱ門家文書二号)。続いて明応六年(一四九七)には、塩・榑を里買する事件がおきる。これについて山内馬借は、この地域を管轄する朝倉氏の奉行人である府中両人に提訴したが、買い付けた商人は府中両人の「判紙」を所持していたらしく、特例として運送が容認されたようである。しかしながら原則はあくまで両浦・山内の馬借中が塩・榑の独占的な運送・販売権をもつとして、裁許状ではこの点が再確認されている(資6 西野次郎兵衛家文書一〇号)。



目次へ  前ページへ  次ページへ