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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      政治都市府中の推移
 古代の越前国衙所在地から発展してきた府中(国府)には、中世では守護所が置かれており(『雑事記』文明十二年八月三日条)、政治の中心地であることに変わりはなく、また街道が通るので宿場町の機能ももち、さらに多数の寺社が存在して門前町の色彩もそなえていた。呼称については国府・府中の両方が併用されているが、時代が降るにつれて府中の使用頻度が高まるようである。なお、国府の訓みは「コウ」であった(同 明応七年十月二十六日条、「冷泉為広卿越後下向日記」、『伊達家文書』)。この府中は戦乱にさいしては必ず争奪の対象となった。南北朝期に新田義貞が北朝方の斯波高経を新善光寺城(現在の正覚寺の寺域か)に攻めて勝利して以後、府中はしばらく南朝方の脇屋義助らの拠点となった(『太平記』巻一八・一九)。室町期には小守護代二人がここに配置されたこともあって、応仁・文明年間(一四六七〜八七)の守護代甲斐氏と朝倉氏との合戦でも攻撃目標とされ、文明四年八月に朝倉氏が府中を制圧してようやく合戦の帰趨が決したのである(『私要鈔』同年八月十四日条)。しかし朝倉氏は本拠を一乗谷に置き、この府中には小守護代の職務を継承した府中奉行人(府中両人)を配置するにとどめた。降って天正三年に織田信長が越前一向一揆を攻撃したさいには、信長軍のうち明智光秀勢をまず浜手から「府中町」に突入させて待機させ、ついで一揆の主力軍を木ノ芽峠から追い落として、待ち受けた明智勢にこれを撃滅させるという戦術をとった。その結果、府中町では一揆勢一五〇〇余が切られ、死骸が散乱して「一円あき所なく候」という状況になったと報告されている(資2 泉文書一号)。
 このほか戦国期には、味噌屋・小袖屋といった商人が活躍し(本節一参照)、のちに加賀に移って活動した酒屋の越前屋空遍も府中の出身であった(「越前屋文書」『加賀藩史料』)。また天文十二年五月には、清原枝賢が府中祭の見物に来て興隆寺に宿をとっている。祭りは雨のために延引されて十一日に実施され、「山」三基が引き回され、夜には神輿の渡御が行なわれている(「天文十二年記」『福井市史』資料編2)。



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