目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      湊町の発達
 次に湊町として発達した敦賀と三国をとりあげよう。まず敦賀には、日本海側の荘園などから京都に運ばれる物資のほとんどが陸揚げされたと推測される。敦賀から塩津・海津へ馬借により物資を運び、ついで琵琶湖上の舟運を利用して坂本へ陸揚げする経路をとれば、運賃の高額な馬借を利用する区間が最短に抑えられたからである。ただし敦賀馬借の人数にも限りがあるから、場合によっては小浜への陸揚げもあったであろう。さて敦賀の町並みについては、鎌倉末期の延慶二年(一三〇九)にすでに「敦賀津鳥辻子」が成立していたことが知られ(資2 西大寺文書九号)、続いて建武三年には新田義貞が恒良親王や軍勢を「津ノ在家」に宿泊させたと語られており(『太平記』巻一七)、かなりの規模の町並みがあったと思われる。戦国期になれば、唐人橋(資8 永建寺文書九号)、御所辻子(資8 善妙寺文書一八号)、西町・中橋之町(同一二号)、東町(資8 西福寺文書一七七号、善妙寺文書一二号)などの町の形成を確認することができる。また天正三年に下向した興福寺大乗院尋憲は、敦賀具足屋に宿をとったことが知られるほか(資3 山田竜治家文書一号)、同二十年には大谷刑部が川舟三郎左衛門の敦賀町中諸役を免除しており(資8 道川文書一七号)、大名による町の掌握が進んでいたことがわかる。
 越前のもう一つの重要な湊町として三国がある。ここでは、九頭竜川とその支流を利用して集積された物資が外洋船に積み込まれて送り出され、また逆に航送されてきた荷物は川舟に積み替えられて、人馬の牽引によって九頭竜川などを遡上していった。もともと三国は坂井郡坪江下郷に属し、領主は興福寺大乗院であった。嘉元四年(一三〇六)に、「関東御免津軽船」の船と積荷を三国湊住人や三ケ浦(梶・崎・安島浦)住人が押し取る事件がおきており(二章一節一参照)、津軽との間で交易が行なわれていたことが知られる。入港船からは津料が徴収されたので、正和五年には国司が津料徴収のための使者入部を強行し、また坪江郷住人が津料をめぐって日吉神人を殺害する事件などもおきている。室町期になると、大乗院・長谷寺・内膳司が津料徴収権をめぐって対立しているほか(資2 東山御文庫記録)、九頭竜川の河口部に形成された出来島の領有権を、三国と対岸の阿古江とが争う事件もおきる(「坪江郷奉行引付」)。天文二十年には唐船が入港しており(「朝倉始末記」)、天正二年には織田信長によって三国などに唐人座・軽物座が置かれた(資3 橘栄一郎家文書九号)。このように三国は、各地との活発な取引のなかで湊町として発達していった。



目次へ  前ページへ  次ページへ