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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      市・町の形成
 物資流通が増大し交通が発達するにともなって、さまざまな町が発達してくる。最初に物資の取引のための市が成立し、やがて町並みが形成され、ついで旅行者の宿泊のための宿場町や、物資運送の結節点としての湊町が繁栄する。さらに寺社参詣の活発化につれて門前町が形成され、大名の城が築かれると城下町が発展していく。そのほか古代の国衙所在地が、引き続き中世にも政治都市として存続することもあった。
 街道に沿ったところに市が立ち、やがて町並みが形成されて宿場町に発達したと推測されるのが金津である(一章六節五参照)。鎌倉末期の正和四年(一三一五)に金津八日市で徴発された人夫が金津神宮護国寺・新春日社の造営料に寄進されており(「大乗院文書」)、すでに八日市と称される三斎市が成立していたことが知られる。市場や町は境界の地に成立することが多いことが指摘されているが、この金津も竹田川を挟んで河口荘と坪江郷の交錯する境界の地であった。近隣にはこのほかに六日町・十日町などの地名が残るので、円環状に順次に市が開設されていたのであろう。また同じく鎌倉末期に「金津宿 在家廿二宇」と記され(「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)、すでに宿場町としても機能していたことが知られる。降って文明十年に、八日市の代官に杉若藤左衛門が任ぜられているが(『雑事記』同年六月二十一日条)、同十二年には朝倉・甲斐両氏の戦乱によって「金津町屋」が焼失してしまったとされている(同 同年四月七日条)。
写真246 朝倉光玖書状案(瓜生守邦家文書)

写真246 朝倉光玖書状案(瓜生守邦家文書)

 同じく北陸道に沿った宿場町としては今立郡水落(鯖江市)があるが、ここは神明社の門前町の性格ももつので、やや複雑な情勢がみられる。まず延徳三年の「冷泉為広卿越後下向日記」をみると、「水オチ 里・野・杜神明、馬市」とあって、町並みに続いて野が広がり、ついで神明社の杜が茂り、また馬市が立っていた。ところでこれより以前の十五世紀中期に、水落町の住人が町並みの周囲に「篠」を引いて逃散する事態が発生していた(資5 瓜生守邦家文書一一号)。この篠は注連と同じく神の依代の機能をもち、住人の逃散中に第三者がその土地や家屋に立ち入ることを禁じて保全するための標識である。逃散の原因は未詳であるが、水落町衆の一致した行動をここにみることができよう。さて永正十五年になると、水落町衆は神明社の祭礼「をこなゐ(行)」を中止と決定するが、当地の代官小島景増は当年だけは実施すべしと決定を撤回させている(同一六号)。永禄四年にも水落町御百姓中が神明社祭礼に「やま」(山車)を出すのは困難だとして中止を決定するが、朝倉氏は期日を延引しても「やま」を出すようにと厳命している(同三三号)。このほかに町衆は、大永元年の浅水金橋の出銭について神明社の祝屋敷にも割り当てているが、祝は代官小島景増に免除を要請して認められている(同一八号)。このように水落町衆は、町並みに篠を引いていっせいに逃散したり、あるいは神明社の祭礼挙行や土木事業の出銭配分などに主体的に関与していたことが知られるのである。
 同じく宿場町から出発しながら、そののち城が建設されることによって城下町として発達することになるのが北庄である。延徳三年の「冷泉為広卿越後下向日記」では、「北ノ庄 里」、ついで「町屋 橋・里」と記されており、すでに街道沿いに町並みが成立している様子を看取できる。戦国期については史料が得られないが、天正三年になると、北庄・石場(社)・木田の惣老やその他の武士が連署して上杉謙信に一向一揆加勢の出陣を要請しているので(資2 武州文書四号)、北庄・石場・木田に自治的な集団が形成されており、それを代表する惣老が選任されていることが知られる。



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