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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      河川交通
 九頭竜川などを利用した河川交通についてもふれておこう。物資輸送には河川の舟運が極めて有効であるから、九頭竜川とその支流の足羽川・日野川などは頻繁に利用されたと推測され、坂井郡三国湊で荷物は川舟から外洋船に積み替えられて敦賀・小浜に運ばれた。河川舟運については、例えば十四世紀に三方郡御賀尾浦(三方町神子)の塩船が足羽郡北庄で積荷を押し置かれた事件がある(資8 大音正和家文書八五号)。降って大永四年に吉田郡藤島荘下司の中村氏が同荘中郷において九頭竜川を下る大野郡七山家の木製品に「口取」を課していた例や(資7 白山神社文書一号)、永禄八年には阿波賀の「倉」がみえ、これは足羽川の舟運を利用したものではなかったかと思われる(資2 真珠庵文書一一三号)。また元亀三年に下向した興福寺の使者の荷物は、「府中より三国まて舟チン」とあって、府中から三国まで日野川―九頭竜川の舟運で運ばれたことが知られる(「尋憲記」元亀四年正月二十七日条)。また近世初期には、慶長十年に水落神明社の拝殿を建立するにあたり、用材を「三国より北庄まて」、すなわち九頭竜川―足羽川を遡上して運んで「海賃」を支払い、北庄で陸揚げしたのち、「北庄より水落まて」は馬や人足で運んで駄賃を支払ったことが知られる(資5 瓜生守邦家文書六一号)。
 このほか三国付近で九頭竜川と合流する兵庫川・竹田川も、坂井郡内の物資を三国へ集積するのに利用されたものと推測される。なお三国湊では、鎌倉末期に升米とよばれる一パーセントの津料が徴収されていた(資2 吉田文書一号)。



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