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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      朝倉氏の街道普請事業
 朝倉氏は領国統治のために街道の普請事業を実施しており、少なくともそれは二回にわたって実施されたことがほぼ確かである。街道整備は領国支配の根幹に関わる問題と思われ、厳重な指示が下されている。
 第一次の街道普請事業は、永正・大永年間(一五〇四〜二八)に実施された。まず永正七年から敦賀で「庄之橋」の架設工事が行なわれる(永厳寺文書一三号『敦賀市史』史料編二、資8 西福寺文書一七二号)。ついで永正十二年には西街道の改良工事が計画されて、翌十三年から着手された(資6 西野次郎兵衛家文書一八〜二三号)。さらに大永元年には「浅水之金橋」架設が計画され、その出銭が水落の町衆や神明社祝屋敷などに賦課されている(資5 瓜生守邦家文書一八号)。
 第二次事業は永禄年間(一五五八〜七〇)の実施である。まず永禄六年に西街道の普請に関して、その幅員を一間半とし、そのうち傾斜面を除いた人馬通行の道路部分は一間を確保するようにと厳命され、測量のための「定尺」が下付されている(資6 西野次郎兵衛家文書五八号)。ついで永禄十一年には北上して北庄橋修理が計画され、用材確保に本保・立田両氏が奔走していることが知られる(資5 瓜生守邦家文書三六号)。



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