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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      北庄から加賀国へ
 続いて北庄から北に向かって北陸道を歩むと、吉田郡高木で九頭竜川を越え、続いて坂井郡長崎―関―金津―細呂宜、そして祝言坂を越えて加賀国橘(石川県加賀市)に抜けた。
 まず九頭竜川を渡る施設であるが、十五世紀後期には舟橋が架設されており、今泉・河野両浦については「高木舟ハしの用船」の提供が免除されている(資6 西野次郎兵衛家文書九号)。しかし延徳三年の「冷泉為広卿越後下向日記」では「クツレ」川を渡し舟で越えたと記され、また永正十五年に前述の伊達氏の使者も「くつれのわたり」を渡ったとみえ(『伊達家文書』)、十五世紀末期以後には九頭竜川には渡し舟しかなかったことがうかがえる。なお、舟橋を架設すること自体は容易で、軍事行動など緊急の場合に架けられることが多かったが、維持のためにはかなりの負担を要したために永続的なものではなかったらしい。
 九頭竜川を越えて北岸に達すると坂井郡勝蓮華(春江町正蓮華)であるが、ここには南北朝期にすでに宿が成立していた(資2 尊経閣文庫所蔵文書一八・一九号)。さらに北上すると金津にいたるが、鎌倉末期成立と考えられる史料に「金津宿 在家廿二宇」とみえている(「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)。しかし文明十二年の朝倉・甲斐両氏の戦乱では、「金津町屋ハ焼了」と戦火を受けたことが知られる(『雑事記』同年四月七日条)。この金津には八日市と称される三斎市が成立しており、寛正五年(一四六四)にここに新関設置が検討されたが(同 同年八月十三日条)、これは中止されたらしい。
 ところで永正三年に加賀一向一揆が蜂起して越前に侵攻したさい、朝倉氏はこれを九頭竜川の岸辺で撃退したのち、加賀口の往還を停止する措置を採った。これはその後一〇余年にわたって継続されたので、加賀に所領をもつ公家・寺社はおおいに迷惑し、永正十五年に将軍足利義稙が使者伊勢貞陸を下向させて開放を指示した。朝倉孝景はこれを受けて関所を管轄する笠松氏に対し、ただちに書状検閲などを停止するよう命じている(資3 三崎玉雲家文書六号)。朝倉氏にとって加賀国境の関所は、本願寺と加賀一向一揆との連絡を遮断することが第一の目的であり、そのためには関銭徴収という経済的側面は顧慮されていないのである。この関所の所在地はおそらく長崎(丸岡町)であろう。
 ついで細呂宜には橋が架かっていた。幕府は寛正四年にその橋賃徴収の権限を大和興福寺に安堵し(『雑事記』同年十一月二十八日条)、翌五年に井藤氏がこの代官職を所望して許可されている(同 同年八月十三日条)。
 越前・加賀の国境は、延徳三年の「冷泉為広卿越後下向日記」に「モンドウ坂」とみえ、為広はここを通って加賀国橘まで吉崎御坊の人夫に送られたと記されている。このモンドウ坂という呼称は、近世には祝言坂に変わり、現代ではノット坂、またはノコギリ坂などとよばれている。



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