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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      府中から北庄へ
 府中から先の北陸道は、白鬼女渡しで日野川を越え、今立郡鯖江―水落―足羽郡浅水―北庄とたどる。その途中には白鬼女橋・浅水橋・北庄橋が架かっていた。
図50 北陸道の経路

図50 北陸道の経路

 まず白鬼女橋については、文明十八年(一四八六)の聖護院道興の紀行文「廻国雑記」に、「しらきどの橋」で詠んだ歌として、「里の名もいさしらきとの橋はしら、立よりとへは波そ答ふる」とあり、白鬼女橋が架設されていることが確認できる。また延徳三年に冷泉為広が越後へ下向するさいにも、「シラキヂョ 橋」を渡っていることが知られる。しかしこの橋はそののち舟橋となり、元亀三年に朝倉氏はここに「白鬼女船橋」を架設するよう命じている(資6 西野次郎兵衛家文書六六号)。天正十一年になると豊臣秀吉が「さばや」(鯖屋荘、のちの白鬼女村)船頭中に充てて諸役免除を認めているので(資5 舟津町五丁目区有文書一号)、白鬼女には渡し舟しかなかったことが知られる。
 続いて鯖江は、早くも南北朝期に宿としてその名が知られる(『太平記』巻一九)。さらに北上すると浅水には橋が架かっていたが、すでに平安期に「あさむづの橋」がみえ(『枕草子』)、暦応元年(一三三八)七月に新田義貞が戦死したさいに、その報を勾当内侍が受け取ったのは「浅津の橋」に到達したときであったとされる(『太平記』巻二〇)。また近江坂本西教寺の真盛の働きかけで、朝倉氏は長享二年(一四八八)に「浅水橋」の橋賃を一時停止したとされ(『真盛上人往生伝記』)、延徳三年には冷泉為広も「アサウヅ橋」を渡っている。大永元年(一五二一)になると、「浅水之金橋」を建設するために水落町衆が出銭を募っている(資5 瓜生守邦家文書一八号)。金橋とは、激しい往来に対応すべく橋板の上面を鉄板で覆ったものであろう。降って天正三年にも「浅水之橋」の存在が確認でき、これよりも南の地域での大滝神郷紙座の活動に対しては諸役免除の特権が容認されている(資6 大滝神社文書一八号)。
 ついで、北陸道が足羽川を越える地点には北庄橋(木田橋、現在の九十九橋)が架かり、初見は延徳三年の「冷泉為広卿越後下向日記」に「石バ(場) 百八間ノ橋アリ」とみえる記事であろう。ついで天文十二年・同十五年に、滝谷寺充ての北庄大橋礼銭請取状が残されており(資4 滝谷寺文書二五・三五号)、滝谷寺が礼銭納入によって橋賃を免除されていたことが知られる。同様の請取状は天正元年のものまであるので(同一三五号)、この時点まで北庄橋が存続していたことが確認できる。なお永禄十一年(一五六八)にこの北庄橋の修理が計画されたが、水落神明社は申請によって用材提供を免除されている(資5 瓜生守邦家文書三六号)。さて、織田信長から越前統治をゆだねられた柴田勝家は、入国早々に北庄橋の修築工事を命じ(資3 木戸市右衛門家文書一号)、天正六年に完成したらしい。その橋は中央部から南半分を石材で、北半分を木材で構築するという珍しい形態のものであったが、用いられた石材は足羽山麓の石場から切り出した笏谷石(緑色凝灰岩)であった。



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