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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      敦賀から府中へ
写真245 木ノ芽峠

写真245 木ノ芽峠

 敦賀から府中にいたる経路としては、北陸道を木ノ芽峠―南条郡今庄―湯尾峠―鯖波―府中とたどるのが一般的であった。この街道に沿って今庄・鯖波に関所が設置されていたことが知られ、戦国期には「今しやう吉田殿役所」「さはなミ役所」がみえる(「尋憲記」元亀四年正月二十七日条)。さかのぼって南北朝期の今庄関所については、気比社の言上状に詳細が記され、至徳二年(一三八五)をかなりさかのぼる時点ですでに今庄関所が設置されて気比社の直務支配が行なわれていたが、至徳二年に守護の要請により年間五〇貫文の関料を納入する請所支配となった。しかし関料の無沙汰が続いたので、気比社は永享七年(一四三五)に直務支配に復したいと申し出ている(『気比宮社記』)。享禄二年(一五二九)にも今庄関所の設置が確認される(資2 朽木家古文書五〇号)。なお南北朝期にはすでに「湯尾ノ宿」「鯖並(鯖波)ノ宿」が成立していた(『太平記』巻一八)。
 北陸道をたどる陸上経路に対し、海上交通を一部利用する経路もあった。すなわち敦賀湾の舟運によって南条郡今泉浦または蕪木(甲楽城)浦に上陸し、ここからいわゆる西街道を湯谷―丹生郡勾当原―南条郡広瀬―府中、もしくは湯谷―中津原―春日野―府中とたどるものである。この西街道は、「ほつこくかいたう」(資6 西野次郎兵衛家文書一八号)、「海道」(同五八号)、あるいは「今泉浦谷道」(同二九号)などとよばれ、室町期以降に物資輸送の経路として頻繁に利用された(本節三参照)。なお延徳三年に越後に下向した冷泉為広も、帰路にはこの西街道を通って今泉浦に達し、舟で敦賀へ渡っているから、徒歩旅行者もこの経路をおおいに利用したことが知られる。



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