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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      塩津街道
 越前に下向する者が湖上舟運を利用した場合には、多くが塩津に上陸して、沓掛―敦賀郡追分―疋田とたどる深坂越えを歩んだか、または敦賀郡新道野―麻生口と迂回する新道野街道を利用した。この両経路をここでは塩津街道と総称しよう。徒歩の場合は急峻ながらも短距離の深坂越えを通り、重量物は新道野街道を利用したと思われる。永正十二年に敦賀郡気比社再建の用材が近江国葛川から塩津に集積され、ついで疋田へ運送されたさいには、おそらく新道野街道を通ったことであろう(「中山弥七郎文書」永正十二年六月九日付朝倉教景書状『敦賀郡古文書』)。なお前述した冷泉為広の場合には塩津ではなく海津に上陸しているので、七里半越えを歩いて敦賀に入ったものと思われる。
 塩津から敦賀まで荷物を輸送するさいの駄賃については、十世紀初めの『延喜式』の規定では米であれば石列一六パーセント、鎌倉期では二〇パーセントであった(「気比社所当米等注進目録」『気比宮社記』、「勧学講条々」)。その途中の関所としては「荒地中山関」が有名で、建武五年(一三三八)にここに南朝勢が立て篭もり、これを朽木頼氏が討ち破って戦功をあげたことが知られるが(資2 朽木家古文書四号)、この関所は追分に所在したのではなかろうか。また応仁二年(一四六八)の知恩院隆増置文にも「荒地中山升米」という得分がみえ(『九条家文書』二〇七九号)、関所の設置が確認できる。升米とよばれるからには、その賦課率は一石あたり一升、つまり一パーセントだったのであろう。



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