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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      大杉関
 九里半街道をたどって近江から若狭に入る地点には大杉関が所在した。この関所は応安六年(一三七三)の過所では「若狭国東口御服所関」とよばれ、加賀国大野荘(金沢市)・三方郡耳西郷から京都臨川寺に運ばれる年貢を支障なく勘過させるべしと命ぜられている(資2 天龍寺文書一二・一三号)。御服所とは禁裏の御服調達のための官司と考えられ、その所領の一つに大杉関が属したものであろう。現地の関務の詳細は明応十年(一五〇一)の関務代官職請文案によって知られ、領家職大聖寺殿の管轄下で古川修理亮が四分の一の代官職を預かり、関料は夏と秋に月別二貫二五〇文、冬・春に月別一貫二五〇文、年間合計二一貫文を上納することになっていた(資2 内閣 朽木家古文書三四号)。これで四分の一であるから、関料の総計は八四貫文だったと思われる。大聖寺は、光厳天皇妃の無相定円禅尼が開基となり、足利義満の尽力で創建された臨済宗の尼寺で、門跡寺院として遇されていた。なお大杉関での関米の賦課率は〇・一パーセントであった(同五五号)。



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