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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      湖上舟運
 西近江路を陸路でたどるかわりに、琵琶湖の舟運が利用されることもあった。特に年貢米など重量物の運送の場合は、馬借を利用したさいの高額な運賃を抑えるために、できるだけ舟運に頼ったことと推測される。荷物はまず敦賀または小浜に陸揚げされ、馬借によって塩津・海津もしくは今津に運ばれ、ついで舟に積み込まれて坂本に達し、ここから再び馬借によって山中越えで京都へ運ばれたのである。ところで坂本にいたるまでの湖上においても、物品や旅行者に対しては通行料が賦課された。例えば京都東岩倉寺領である遠敷郡津々見保の年貢米につき、「山門七ケ所関」を速やかに勘過させるべしと命じた室町幕府将軍家御教書があるが(資2 大覚寺文書四号、景山春樹氏所蔵文書一号)、これが湖上関と称されるもので、嘉吉三年(一四四三)になると「坂本七ケ所・山中・船木以下山門領関々」とみえて、湖上関の増設が知られる(資2 大覚寺文書六号)。なお旅行者がこの舟運を利用した事例としては、延徳三年(一四九一)に越後に下向した冷泉為広が、坂本―海津間を往復ともに舟に乗っており(「冷泉為広卿越後下向日記」『福井県史研究』三)、また天文十二年(一五四三)に越前に下向した清原枝賢も、四月二十日夕方に坂本で舟に乗り、翌二十一日夕方に海津に上陸して一泊していることが知られる(「天文十二年記」『福井市史』資料編2)。
 琵琶湖岸の今津は若狭荷の積み出し港であった。天正九年(一五八一)に近江国大溝城主津田信重は、若狭からの塩荷について、その輸送権を新庄(滋賀県新旭町)と同様に今津へも安堵している(資2 川原林文書一号)。また天正十一年には、豊臣秀吉が若狭からの「高荷」を運ぶ船は従来どおり今津浦に着岸すべしと命じて、その特権を保護している(同二号)。



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