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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      西近江路・七里半越え
 さて、京都から越前に下向する場合には、主として西近江路と七里半越えをたどった。これは京都の東方の北白川口(今路道下口)から山中越えを経て琵琶湖岸に達し、その西岸に沿って坂本―堅田―和迩―田中―今津―海津と北上し、ついで七里半越えを敦賀郡山中―追分―疋田―敦賀と歩むものである。この経路をたどって上洛した人物には、例えば永正十五年(一五一八)の陸奥伊達稙宗の使者頤神軒存がおり、彼は越前国府(府中、武生市)を発って大雪のなかを「木目(木ノ芽)峠」を越え、敦賀から「七里半」越えを通って「てんのくま」を過ぎ、海津で先発隊と落ち合い、西近江路の一二か所の関所を通過し、坂本「七のせきしよ」で関銭二〇〇文、山中関所でも二〇〇文を支払い、ようやく京都に達したと記されている(『伊達家文書』)。この西近江路のそのほかの関所としては、禁裏御厨子所率分関が北白川と今堅田にあった。また、海津から七里半越えをたどって敦賀にいたる場合の米の駄賃は、慶長五年(一六〇〇)に石別一斗八升であったことが知られる(資2 山中山城守文書一号)。
 なお、西近江路の今津で左折して九里半街道に入れば若狭に達するが、元亀元年(一五七〇)に織田信長はこの経路を大軍を率いて三方郡佐柿に達しており、ただちに彼は敦賀朝倉氏への攻撃を開始している(『信長公記』巻三)。



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