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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    二 交通路の発達と市・町の形成
      若狭街道
 京都から若狭にいたる道は、朽木街道・鞍馬街道・長坂街道の三経路のうち、いずれかをたどるのが普通であった。本項ではこの三経路を総称して若狭街道とよんでおきたい。
図49 小浜・京都間の街道

図49 小浜・京都間の街道


表54 高野関における関銭賦課品目とその額

表54 高野関における関銭賦課品目とその額
 まず朽木街道というのは、京都の東北の朽木口(大原口)を出て、高野―八瀬―大原―近江国伊香立荘―葛川―朽木荘とたどり、保坂で左折して九里半街道に入り、遠敷郡大杉―熊川―小浜と進む経路である。街道に沿って多くの関所が設置され、高野関・大原関・途中関・下立関(折立関・高坂関)・坂下関・保坂関、そして若狭では大杉関の存在が確認される。中世の関所は、名目的には旅行者の安全確保をめざして設置されたのであろうが、実質的には関銭徴収を主な目的とするものであって、例えば下立関では、応永年間(一三九四〜一四二八)に足駄荷・桧木柾・若狭荷などに対して関銭が賦課されていた(資2 国会図書館葛川文書一号)。また高野関では、応永二年に表54に示したような荷物に対して、それぞれの額の関銭が賦課されていた(『山科家礼記』文明十二年正月二十六日条)。この表中の「たかに(高荷)」が若狭荷にあたると推測されるが、これは若狭産の漆器など木製品をさした呼称なのではあるまいか。
 次に鞍馬街道とは、京都の東北の鞍馬口(出雲路口)から出て鞍馬を通り、花背峠―久多荘川合―近江国針畑―遠敷郡根来―神宮寺―小浜とたどる経路である。若狭側からは針畑越えともよばれた。京都の出口の出雲路には禁裏御厨子所率分関が設けられたほか、内蔵寮領の関所(所在地未詳)も存在した。率分関とは、徴収された関銭のなかから管轄者へ納める率額が定めてある関所である。
 ついで長坂街道とは、京都から北西の方向へ、鷹ケ峰―杉坂―小野―丹波国細川―周山と、いわゆる長坂越えを通り、さらに弓削―知見―遠敷郡名田荘―小浜へと達する経路であって、特にこの街道をさして「若狭海道」と称した史料がある(『康富記』文安六年四月十三日条)。貞治五年(一三六六)の政変で京都を没落した斯波高経が、この長坂を経て越前ヘ逃れたと語られるなど(『太平記』巻三九)、かなり頻繁に利用されたことが知られる。またこの街道に設置されていた細川関については、若狭からの「毎月運送公物」に関銭を賦課すべからずと命じた史料が確認されるほか(『壬生家文書』一〇二〇号)、杉坂には京都大覚寺領杉坂関と、主殿寮領の「杉坂兵士」とよばれた関所が設置され、ついで小野には主殿寮領の「小野山長坂口兵士」とよばれた関所と内蔵寮領率分関があり、さらに禁裏御厨子所率分関もおそらく小野に設置されていたことと推定される。



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