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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      職人と商人
写真244 世久見枕網中連署請文案(渡辺市左衛門家文書、前後欠)

写真244 世久見枕網中連署請文案(渡辺市左衛門家文書、前後欠)

 以上断片的であるが、越前・若狭の中世後期の諸産業ならびに職人と商人のいくつかについて叙述した。ここでは、こうした商工業者のあり方やその他の商人について簡単にふれる。
 まず地域的関係や同業関係により商工業者の組織がみられたが、こうした商工業者の間でよくみられる祭礼にえびす講がある。えびす信仰は漁業と関係が深く、また農・工・商ともにこれを祀ったといわれるが(「雍州府志」)、史料にはっきりと出てくる中世の事例は全国的にもあまり多くはない。越前・若狭における初見は長享三年(一四八九)で、三方郡の世久見枕網中の請文に「ゑひす魚・ゑひす銭」についてこれまでのように必ず十分の一を上納するとされている(資8 渡辺市左衛門家文書六号)。初物の魚を神に奉るのがえびす講の原義とすれば、十分の一という定額になっているのはかなり変化した形であるが、えびす講に類した祭礼がすでに成立していたことは明らかであろう。このえびす講は前述の河野・今泉両浦と山内でも行なわれており、しかもその場で馬借のことを定めた証文を番まわりに授受するという慣行もみられた(資6 西野次郎兵衛家文書五四〜五六号)。そして一乗町紺屋中の定書にもえびす講のことがみえ、紺屋中に新規加入した者の入具銭の半分をえびす講に充てて半分は紺屋方を支配した橘屋に上納し、えびす講のときに橘屋の名代を紺屋中に派遣することを紺屋たちは要請している(資3 橘栄一郎家文書二八号)。このように早くから越前・若狭の漁民・馬借・商工業者たちの間で広くえびす講の行事が行なわれ、それは彼らの組織的な結びつきを強化するのに役立っていた。
 その他の商人について述べると、これまで主として述べた越前・若狭・近江の商人以外に、他国商人、往還の商人などとよばれる遠隔地取引にあたった商人がいた。京都や奈良の荘園領主たちは彼らを通じて年貢物や割符を入手した。そうした商人のなかには、朝倉氏の被官になる者もいた(『雑事記』文明十六年四月五日条)。また朝倉氏景は、大和の俵屋という商人を通じて河内に送金している(同 文明十六年六月晦日条)。このように金銭や物資を動かして利益をあげるという商業の性格上、商人自体もよく動いた。そのほか越前では、戦国末期に金津の米商人として坂屋(坂野)が知られ(「尋憲記」元亀三年閏正月二日条)、近世にも活躍した。古い商人としては府中の小袖屋や金津の大文字屋といった人びとが知られるが、近世への発展はみられなかった。また若狭では、のちの初期豪商とよばれる者の多くは織豊期から現われるが(通3 一章三節三参照)、そのなかで組屋は戦国期からの有力商人であった。近世初期に活躍した組屋宗円の曾祖父にあたる組屋隆行は関戸豊前守久興とともに小浜本境寺の開基とされ、弘治二年に亡くなったという。この組屋隆行は関戸久興の妹恵鏡を妻にしたという。天文十九年には関戸久興が陸奥国戸館の馬(糠部の名馬)を武田信豊に手配した功績により、本境寺の寄宿・飛脚役が永代免除されている(資9 本境寺文書五〜八号)。この関戸氏は出羽国桧山城主下国安東氏の家中の関戸氏の一族とみられており(「音喜多文書」)、日本海を舞台とする海上交易に従事してかなりの富をもっていたものと推定され、組屋氏も戦国期にはこうした交通・交易に深くかかわっていたものと思われる。



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