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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      座商人の活躍
写真242 朝倉光玖定書(浄光寺文書)

写真242 朝倉光玖定書(浄光寺文書)

 中世後期の越前では諸産業の発達の結果、座商人が広く活躍した。若狭では前述した麹座を除けばあまりみるべきものがない。
 足羽郡三か荘には十人衆商人という有力商人の組合が形成されていた。この三か荘とは北陸道が足羽川を渡るところの南北に位置する木田荘・社荘(石場荘)・北荘のことで、当時の越前北部の経済の中心地であり、この地域には古くから在地に勢力をもった足羽・黒竜両社ならびに神宮寺などの寺社に属する神人や僧侶たちがおり、彼らの商業活動の歴史がこうした商人たちの存在の一つの前提となっていたものとみられている。十人衆商人を堺の会合衆などと比べることは飛躍があるであろうが、それをある程度都市的な商工業者の自治組織とみることは可能であろう。明応二年(一四九三)七月、当時朝倉氏の民政面に重きをなした朝倉光玖は、当主貞景の意を受けて三か荘十人衆商人に三か条の定書を与えた(資3 慶松勝三家文書一号、「浄光寺文書」)。定書は、まず第一条で浅水川より下方の加賀国境までの軽物(絹布)商売人はたとえ誰の被官人であってもすべて十人衆の配下として要脚(税)を納めることとして、十人衆商人の特権と責務を定めている。次に第二条で他国の商人が勝手に生産者から糸・綿を直買することを禁止し、第三条で十人衆商人の荷物は国中の諸関渡を煩いなく通すことを保証して、彼らの国内における商売を保護した。たびたび述べたように越前は養蚕がさかんで、糸・綿は高級衣服や綿入れの原料として大きな需要をもっていた。また絹布を含めてこうした衣料は極めて高価で、したがって商品取引の利益も大きく、隣国などの有力商人がそれに参入しようとしたものとみられる。これはそののちも繰り返され、永正六年にも十人衆商人は他国の商人たちの糸・綿入買の停止を訴えて朝倉貞景からそれを認められている(資3 慶松勝三家文書二号)。このように十人衆商人が朝倉氏の権力と結びつくことで保証された権限は、朝倉氏の滅亡後に織田信長からその成員の一人と考えられる橘屋に与えられ、それは軽物座とよばれるようになった。
 越前海岸一帯の海産物は府中方面にも流通していたが、在地の合物座(相物座、塩干魚の類を扱う)と京都の有力商人である左近駕輿丁座が対立した。文明九年(一四七七)、朝倉孝景は新儀を行なわず互いに昔どおりに商売することを合物座方に命じている(資5 岡田健彦家文書一号)。これは京都の特権的な座と地方の座が商売の販路を争っている例で、朝倉氏はいわゆる領国統治を形成する意味をこめて合物座方の権益を保護したものと考えられる。このことを示す古文書はもと府中の魚問屋に伝わっていたといわれ、海産物商売の営業権を認めた証文として大切にされていた。
 次に、敦賀津は古来から北陸の物資流通の結節点であったが、中世後期になると在地の水産業の発達に裏づけられた商人たちの活躍がうかがえる。朝倉氏は敦賀の川舟座という商人の座を政策的に支持し、郡内の浦のみならず越前海岸の浦々、若狭・丹後など他国の塩・合物の商売まで公認した。この川舟座とは笙ノ川を少しさかのぼった島郷(敦賀市野神・和久野一帯)の百姓の惣であり、もと河川水運に従事したものといわれる。戦国期にはもっぱら海上交通による海産物の商売を業とし、朝倉氏は彼らに塩・合物の公事銭や入港税などの商売役や御用舟・入肴などを課した(本章二節三参照)。
 紙の生産については、前述したように戦国期に大滝以外にも複数の小規模な紙生産を行なう在所もあり、越前国内で地域的な流通をみせていた。天文三年六月、今立郡水落の代官小島景重は近間藤四郎という名の武士が当地で紙を販売する権利を認めている。この販売権は「正金与大郎紙之座」とよばれ、府中住人の正金与大郎がもっていたものであるが、その一部が近間に譲渡されたものである。そのさい近間は水落神明社に対して参物を前々のように沙汰することを命じられている(資5 瓜生守邦家文書二三号)。この例からみると、かなり狭い範囲で在地の有力寺社が紙販売の座に関与していたことがうかがえる。
 天正三年の越前一向一揆を鎮圧した信長政権は、大滝神郷の紙屋を保護した。同年十月府中三人衆は紙座の定書を下して、敦賀・南条郡の境にあたる木ノ芽峠から足羽郡浅水橋にいたる南条・今立・丹生各郡の紙商売の諸役免除と紙屋たちの地下夫役停止、そして山林伐採の禁止などを規定して、大滝神郷の紙屋たちを安堵した(資6 大滝神社文書一八号)。



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