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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
    一 諸産業と職人・商人
      農村の商人
 中世後期になると、農村の経済的な安定により在地で活動した商人も現われる。比較的史料が多く注目されている大商人について述べる前に、こうした農村部での商売についてふれる。
 農村で自給できない基本的物資として塩がある。丹生郡の北部に大きな勢力をもっていた越知山大谷寺は古くから「塩の口の上分」を収納し、これを三月五日の神事御供の入用銭に充てていた。これは在所の塩商人たちから上納される銭のことで、享禄二年の神領坊領目録によれば岸水乗音坊が取り次いで七五〇文が納入されている(資5 越知神社文書二六・四〇号)。また坂井郡棗荘でも製塩を行なっており、戦国期には坂井郡の本郷竜興寺へ塩を納めることになっていた。ところがその納入が滞ったため、領主の朝倉教景は塩商売人の馬を止めて塩を召し出させている(資4 松樹院文書九号)。前述の岸水はこの竜興寺の東麓にあたっているが、坂井郡から内陸部にいたる中継の要地に位置している。越知山の塩上分の取次ぎをした乗音坊もこうした塩商売に関与したものとみられる。戦国期末になると越知山への塩上分取次ぎの代官職の補任状もあり、代官に対して所々の塩商人からの上分を確実に運上させることが命じられている(資5 越知神社文書五八号)。
写真241 大谷寺使僧花蔵坊申状(越知神社文書)

写真241 大谷寺使僧花蔵坊申状(越知神社文書)

 また養蚕に使う蚕種についても戦国期には村々で商人が取り扱っており、越知山大谷寺は配下の商人たちからその上分銭を徴収し、毎年三月十八日の越知山御戸開の神事の祈幣絹料などに充てた。大谷寺はその上分銭の徴収を高間次郎左衛門という武士に委託していたが、高間は一四、五年にわたりこれを上納しなかったので、大谷寺は代官を久津見某に替えた。このことについて高間方から反論してきたので、大谷寺は朝倉氏に訴えて奉行人の裏判を得ている(同四六号)。高間は朝倉氏の家臣とみられるが、蚕種商人からの上分銭を徴収する代官職を請け負いながら未進を重ねたのであった。そののち元亀元年(一五七〇)には大谷寺の寺僧の三光坊実経がそれを請け負うことになり、上分銭の額は毎年三月と六月に五貫文ずつ納め、計一〇貫文であった。大谷寺ではこれを領主中村新兵衛尉への納所銭に振り替えることにし、結局それは一乗谷へ納められることにされた(同五七号)。蚕種は優良な品質の繭を維持していくのに必要で、絶対的な信頼性が要求される。越前の養蚕が極めて高い水準にあったことが知られるとともに、蚕種が村々の商人によって広く売りさばかれていたことがその前提となっていることがわかる。
 このように丹生郡の農村の商人は、越知山大谷寺に上分を納めるという形で古くから商売を保証されていた。そして戦国期になるとその上分銭が相当額にのぼり、大谷寺は代官職を設定してそれを管理した。
 また比較的史料に多く現われ、流通の様子が知られる木材として榑がある。榑は一定の大きさに割られた板材の一種であるが、中世に大量にみえる榑は屋根葺き用のものが多いようである。遠敷郡多烏浦の天満宮造営では「上ふきのくれ」に一貫二〇〇文を支出しており、若狭で南北朝期に榑材が売買されている(秦文書九〇号)。鎌倉後期の仏教説話集『沙石集』には、伊豆国の例であるがすでに馬に榑を積んで売り歩く榑売が描かれており、同じ話のなかで塩売と榑売が並べられているのをみると、当時から榑も行商的に売られていたのではないかと思われる。長禄元年に大飯郡中山寺(一乗寺)の鐘楼を造営するにあたり榑一八一〇支が使われており、その単価は四文余だった(資9 中山寺文書一六号)。このように榑は材木とはいっても馬に積めるほどの小型の板材で、単価は安く大量に消費された。南条郡の河野・今泉両浦と山内の馬借たちは府中方面への塩と榑の独占的商売を室町期から認められ、越前や他国から入港した舟に積まれた塩と榑は商品として府中を中心とする越前の都市や村々で流通した(本節三参照)。馬借たちは繰り返し「里買い」とか「里より直買い」などといわれている行為の禁止を要求した。この「里」とはあまり明らかにされていないが、里人などといわれるように村落や農村のことであろう。こうしたことからも、農村の商人が積極的に仕入れに赴いていたことがうかがえる。



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